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屏東縣里港郷

僕の家内の実家は、屏東縣里港郷の隣、九如にあります。それで結婚する前からこの里港という街には何度も行ってます。ここは農業県屏東の田舎の街だとずっと考えていたのですが、初めて訪れてから30年、最近になってようやく認識を新たにしています。

里港という街

普通の日本の方は、屏東県里港と言ってもまず知らないでしょうから、初めに里港がどんなところか紹介します。

南台湾の地理で、大きな県境となっているのが高屏溪です。大きくは、高屏溪の西側が高雄市、東側が屏東県になっています。
台湾鉄道で高屏溪を渡るとすぐに屏東市に入り、そこからほぼ真っ直ぐにバスで北上すると30分くらいの位置、高屏溪が大きく東にその流路を変える場所に里港郷はあります。

里港の位置
屏東駅から里港へのルート

屏東県は農業県として有名なとおり、里港の周辺は農地が広がっており、さまざまな農作物が栽培されています。
日本統治時代の台湾では砂糖が主要な農作物して生産されており、昔は多くがサトウキビ畑だった様です。

屏東客運のバスターミナルは、元々小さなバスステーションがありましたが、今はそれも撤去されて停留所が道路沿いに設置されているだけになってしまいました。昔は地域のターミナルであったものが、現在は単なる通り道になってしまった様です。

屏東から延びている国道3号線は、里港の街の南を通過してさらに北上、高屏溪を渡って高雄市旗山に向かいます。
街の商業エリアはとても小ぢんまりとしたもので、十字路沿いに低層の昔ながらの厝が並んでいるのみで、高層の建物は見当たりません。

家内の実家に顔を出す様になってから、里港の街には何度も来ていますが、その様な、屏東県の小さな規模の、農業を主要産業とした自治体という理解でした。

里港という名前

そもそも、この里港という土地の名前にずっと引っかかるものがありました。"里"は中国語では内側の意味があるので、この地名は南部最大の河川"高屏溪"を上流に入ったところにある港、その様な意味があるのだろうと大雑把な想像はしていました。

ただし、それが現在の里港の街並みと全くそぐわない。今の里港には、港湾機能は全くありません。高屏溪は暴れ河なので、街の河沿いには3mほどはあろうかという堤防が作られています。その内側に街があるので、普段の生活は河と切り離されてしまっています。この河沿いに出るのは、年末に催される花火大会の時くらいです。

ここには台湾人が多い

家内の家は、台湾語を話す台湾人の家族です。それはもちろん、結婚する前から知っていたことですが、だんだんとそのことに疑問を持つようになってきました。というのは、この周りには客家の街や原住民の部落がとても多いからです。

高雄の美濃は客家の街ですし、三地門はタイヤル族の住んでいる部落です。テレビの歴史ドラマ"蘇卡羅"では、港は台湾人、内陸に入ると客家人、山に入ると原住民の部落というグラデーションが描かれていました。
この理屈から行くと、里港はとても海沿いとは言えない。すると、ここに台湾人が多いというのは、何か特別な理由があるのではないかと考えるようになりました。

プロテスタントの教会がある

元々あったバスターミナルの近くにプロテスタントの教会があります。名前は、台湾基督長老教会。建物はとても立派なものです。

たまたま、台湾人の知人が自分の先祖が里港のこの教会で牧師をやっていたのだと教えてくれました。彼のいうところによると、これはとても意味のある教会だったそうです。
淡水にマッカイ牧師の教会があります。それはカナダ人のマッカイ牧師の設立したもので、清朝末期に台湾での外国人の居留が認められてから建てられた、台湾北部のキリスト教布教の拠点です。この北のマッカイ牧師の布教活動に対して、南部で行われていたのがこの教会での布教活動なのだそうです。牧師はHugh Ritchieというスコットランド人で、夫婦で1867年来台後,1869年に里港に来てこの教会を設立したそうです。

この様な台湾南部におけるキリスト教布教の拠点が里港にあったわけです。そうすると、北における淡水と同じような意味合いを里港は持っていたと考えられます。南部におけるとても重要な土地だったのでしょう。

藍家古厝

僕の義理の妹の旦那さんは藍さんと言います。ある時、家内から彼の実家の藍家は里港の名家で、立派なお屋敷を里港に持っていると聞きました。妹の家を訪ねた際にそのことを話すと、こんな資料があると藍家の歴史をまとめた資料を見せてくれました。それは実に清朝の時代から、日本統治時代、中華民国の時代にかけて活躍した藍家の人々の歴史をまとめた、300ページはある大部の本でした。

清朝の康熙六十年(1721年)、朱一貴の乱が起きた際に広東から南澳総兵の藍廷珍とその義理の弟藍鼎元が南台湾に派遣されました。そして、朱一貴の乱が制圧された後、藍家がこの地を治めるために定住を始めました。この藍総兵の末裔がこの藍家なのだそうです。
すると、藍家の人々はすでに300年間里港の地で生活しているわけです。とても由緒正しい家系なのですね。その藍家の歴史を記録し族譜と合わせてまとめたのがこの本でした。

その後、藍家の旧家を訪ねさせてもらいました。あらかじめ連絡をしておき、建物を案内してくれる家の人を呼んでおいてもらいました。その叔母さんは学校の先生をしていた方で、この建物の様子とその歴史を詳しく説明してくれました。この藍家にはお嫁さんとして入ってきたはずですが、自らの家族の一員として、とてもプライドを持って話をしてくれたのが印象的でした。

この藍家のことにはまた別の機会に触れようと思いますが、鹿港の辜顯榮と相並ぶ日本統治時代の重要人物を輩出しています。

何故鳥居が?

2023年12月に家内と一緒に里港に帰り、夜中に街を散歩していると、公園が賑やかにダンスイベントをやっているのに出くわしました。その公園に近づいていくと入口に招き猫と鳥居があるのが見えました。とても唐突に思え、これは最近台湾で流行りの日本伝統をトレンドに使ったアトラクションなのかなと思いました。夜市の屋台もたくさん出ていて、それに花を添えるゲートが作られているのだろうと考えました。

見出しに使っている写真がそれです。過去、里港で日本統治時代の歴史を感じさせるものが全くなかったので、とても唐突な感じがありました。

城壁と城門があった

このイベント会場をあとにして、高屏溪に向けて歩いていくと里港図書館がありました。閉館まで時間があるので、中に入ってどのような資料があるのか探してみました。
想像した通り、郷土資料のコーナーに行くと里港郷土史の資料がありました。本の歴史の部分をめくっていると、日本統治時代の街の様子が描かれている地図がありました。それを見ると、いろいろなことが分かりました。

  1. 里港には城壁があり、4つの城門がありました。

  2. 北の城門の外側には堀(護城河)がありました。

  3. ダンスイベントをやっていた公園の脇には、神社が建っていました。

これが清朝末期から日本統治時代にかけての里港の状況だったわけです。この地図を見たことで里港の街が過去どんなところだったのか、具体的なイメージが湧いてきました。そして、これまで感じていた様々な疑問のピースが一つにまとまりました。

いにしえの里港の姿

この様な城壁のある街は、屏東県では恆春が有名です。清朝時代の台湾では、屏東の地は原住民の勢力が強く、漢民族は城壁を建設して拠点をつくり、そこに政府を設けて周辺の部分的な統治に臨んでいるという状態でした。その恆春と同じような規模の、漢民族の統治の拠点であったのが里港だったのでしょう。藍家が入植したのをきっかけに、この街が発展していったのだと考えられます。
その地理的な条件として、高屏溪の水量が豊富だった時代には、実際に貨物を陸揚げする港だった。それが軍事拠点としての条件であり、この機能は商業の集積地としての機能を拡充してできたものでしょう。
この河川舟運時代の街というのは、北部では新荘や三峡などがあります。大稻埕や萬華もそうです。南部でこの様な条件にあったのが、高屏溪中流にある里港だったのだと考えられます。

そのような、屏東の地では清朝の統治の拠点であったために、この地で農業に従事する人間として、台湾人が多く入植していた。周辺の客家人と原住民の集落とは異なった民族構成になっていたのは、そういう理由なのでしょう。

キリスト教布教の拠点がここにできたのも、ここが商業交易の拠点として、人々の集まる栄えていた場所だったからでしょう。淡水との類推で考えるとそのようなことが想像できます。

日本統治時代、この城壁と城門は保持されていて、その中には神社も建設されました。現在、ほとんどその時代の建物は残っていませんが、一軒だけ薬局の建物が廃墟となって残っています。

しかし、この様な舟運を前提とした交易の時代は、自動車の発展に伴い、だんだんとその根拠を失っていきました。それに加えて台風による水害を抑えるために上流にはダムが設けられ、河には堤防が設けられます。高屏溪の水量は大幅に減少し、舟による輸送はできなくなってしまいました。そのようにして、里港の舟運交易拠点としての機能は失われてしまいました。現在は国道3号線の中継点でしかなくなっています。それが現在の里港の姿です。

これらの歴史的な遺産は、里港ではあまり顧みられず、記憶の底に沈んでいます。しかし、この様な歴史を有する街であることを発見できたのは、とても興味深いことでした。

屏東県里港郷、もし屏東に訪れることがあれば足を伸ばしてみてください。

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