「台湾のジャズミュージシャン100年の軌跡をたどって」(その一)
「探尋爵士樂手在台灣的百年足跡」
これは台湾の雑誌「Par」でジャズ特集が組まれた際、台湾ジャズシーンの第一線で活躍しているサックス奏者、楊曉恩老師が寄稿した文章です。楊さんは博士課程で台湾のジャズの歴史を研究しており、その蓄積をまとめてこの文章を書いています。
ここでは、楊さんの了解を得てこの文章を日本語に訳出してみます。
台湾のジャズの歴史は日本とは大きく異なっており、戒厳令が解かれた後にようやく自由にジャズを学ぶことができるようになっています。そのために、僕は台湾のジャズはとても若い音楽である考えています。
この文章では、更にその時間を遡り、日本統治時代にその源流を求めて、台湾のジャズの系譜を説明しています。
1896-1946 日本統治時代
ジャズミュージシャンとは、どの様に定義したら良いのでしょう?多くの人は、ミュージシャンとしてのテクニックと知識を備えていたらそうであると言います。ある人は、職業として音楽で稼いでいることが、ジャズミュージシャンの条件であると言います。一部の人は、現代のジャズは芸術としてのオリジナリティーを有してなくてはいけないとも言います。「ジャズ」の定義が多様性に富んでいる様に、「ジャズミュージシャン」の定義も簡単ではありません。
過去100年間、ジャズはアメリカで生まれ世界各地に広まっていきました。台湾においても、それぞれの時代に、ジャズに興味を抱き、自身でそれを実践した人々がいました。彼らは理想を追い求め、あるものは故郷を離れ異郷に学び、あるものはレコードを聞いて音楽を模倣しました。台湾の音楽史において、これらのジャズミュージシャンの、台湾における物語を忘れるわけにはいきません。彼らは、様々な音楽シーンの中に独自の足跡を残しています。この小論では、それぞれの時代が動く中で、音楽を演奏するグループがどの様に移り変わっていったのか、彼らがジャズに対してどの様な理想を抱き、自分の立ち位置を見出していったのか、そして後に続くミュージシャンと次の世代に何を残していったのかを見ていきます。
日本統治時代:台湾ジャズミュージシャンの萌芽
ジャズという音楽が、レコード、娯楽としてのダンス、海外旅行とラジオ放送を通して世界に広がっていったとき、日本人もこのアメリカからやってきた最新のエンターテイメントに夢中になりました。1920年代中頃、たくさんのダンスホールが大阪でオープンし、そこではハウスバンドを雇って演奏をしていました。このムーブメントは台湾にも伝わりました。1939年、台湾の音楽家高金福が《台灣藝術新報》で台湾人がどの様にジャズの演奏を始めたのかを描写しています。彼と音楽研究会の仲間が一緒になって、1930年に大稻埕でジャズバンドを組織しました。当初、ミュージシャンの多くはクラシック音楽の素養しかなかったので、ただひたすらにレコードを聞いて音楽を真似するだけでした。練習の甲斐あって、ようやく1931年にその頃オープンしたばかりの「同聲俱樂部」で演奏する運びになりました。同聲俱樂部は1935年に別の場所に移り、「第一ダンスホール」と店名を変えています。有名なトランペッター楊三郎は、このホールでエレベータボーイを勤めたことがきっかけで、音楽を学び始めています。
この様にジャズとダンスはとても人気のエンターテイメントとなりましたが、この音楽と活動は日本では保守派の知識人から非難を浴び、反対されるもので、政府から規制を受けたこともあります。何人かのミュージシャンは、そのために上海や満洲国に演奏の機会を求めて移って行きました。台湾のミュージシャンは、植民地政府の規制がだんだんと厳しくなってきたため、海外に活躍の機会を求める様になります。例えば、林禮涵、楊三郎、陳清銀、許戊己、蔡江泉それに劉金墻らは、皆日本、満洲国や上海に演奏に行く様になりました。
ダンスホールでのミュージシャンの仕事以外に、地方の伝統的な若者の楽団も、日本統治時代に洋楽の演奏を始めています。例えば、松山福安郡がその一例です。松山福安郡は1917年に創立され、当初は吹奏楽と管弦楽を主に演奏していました。後にジャズの演奏も学び始め、彼らは戦後の台湾音楽界でとても活躍しています。彼らの中から、統一飯店のリーダー鄭萬欉や、著名なドラマー王裔旺らが現れています。
まとめると、日本統治時代の台湾のミュージシャンは、日本の植民地であることからジャズに触れ始めました。ジャズのグループが成立するのは、音楽研究会、ダンスホール、地方の若者の楽団などが主でした。その他に、高金福はジャズが進歩するためには、個人のインプロヴィゼーシャンの力量とチームでのコラボレーションが大切だと書いています。ですので、この時期のジャズミュージシャンは、既にジャズという音楽に対しての理解をちゃんと持っていたのだと分かります。これは、100年を経た今でも、ジャズという音楽の大切なポイントです。
戰後戒厳令の時代:様々な出自のミュージシャンが創り出したジャズ
第二次世界大戦後の戒厳令の時代、台湾のジャズミュージシャンは大きく4つのグループに分かれていました。一つ目は日本統治時代の音楽教育を受け、日本のジャズの影響を受けたミュージシャン。二つ目は国民党が台湾にやってくる際に連れてきた、戦前の上海のジャズの影響を受けたミュージシャン。三つ目は台湾駐留の米軍関係のアメリカのジャズの影響を受けたフィリピンのミュージシャン。最後は戦後に育ち、1960年代頃に音楽の仕事を始めた台湾の地元のミュージシャンです。彼らは一つ目と二つ目の先輩の伝統を踏まえた上に、三つ目のフィリピンのジャズミュージシャンと密接な交流を持ちジャズを学びました。この四つのグループのミュージシャンは、アイデンティティの上で異なったグループに属していましたが、音楽を通してその境界を超えて交流を重ねました。ですので、台湾の戦後の戒厳令の時代、ジャズの演奏の現場は、この四つのグループが一緒になって作り出していたのだと言えます。
第二次世界大戦後、時代は大きく変化し日本統治時代の台湾のジャズミュージシャンは、その音楽家としてのキャリアを新しく展開させていきました。1940年代末期、楊三郎と陳清銀は早々にラジオ番組での生出演の機会を得ました。米ソ冷戦が始まると共に、アメリカ軍の顧問団が台湾に駐在する様になりました。彼らは軍隊だけではなく、ジャズも台湾に持ち込み、台湾人が彼らに対しジャズを演奏する機会も増えました。楊三郎、陳清銀、林禮涵と許茂己らは、皆1950年代アメリカン倶楽部で演奏をしています。しかし、彼らのその後の音楽家としての道は、異なったものになりました。陳清銀は、周藍萍の映画音楽の制作に携わりました。林禮涵は音楽の仕事の主軸を編曲と録音におき、その作品数は一万曲に及んでいます。1960年、70年台における、レコード制作の重要な録音技術者です。楊三郎は台湾語の歌謡曲の作曲で名をなした以外に、1950年台には「黑貓歌舞團」を組織し巡回公演をしています。残念なことに、この歌舞團は1965年頃には人気を失ってしまい、楊三郎は苦境に立つことになります。
感想
僕は別のところで、台湾の建築師の変遷についても書いていますが、このジャズミュージシャンの場合と同じ様に、その萌芽は日本統治時代にあるものが、中華民国の時代になり、大きく変革を余儀なくされる。そして中国大陸、アメリカの影響を受けて徐々に台湾独自の文化が育ち始める。この図式はとてもよく似ています。
これは、現在の台湾を観察する場合の、ある程度普遍的な視点なのかもしれません。