「台湾のジャズミュージシャン100年の軌跡をたどって」(そのニ)
「探尋爵士樂手在台灣的百年足跡」の記事の翻訳、第二回です。
戰後戒厳令の時代:様々な出自のミュージシャンが創り出したジャズ
台湾のミュージシャンの他にも、上海のミュージシャンも戦後初期の台湾の音楽界に影響を与えています。著名な作詞家、慎芝の夫であるバイオリニスト關華石は、戦前上海で廣東樂團を結成しジャズを演奏していました。そして、1949年に台湾に来て以降、台湾のミュージシャン林禮涵、許戊己、さらに上海から来たドラマー何海一らとジャズバンドを結成し、南國餐廳で演奏しています。1962年台灣電視台が開局し、慎芝が歌謡番組《群星會》のプロデューサーに就任、この番組のバックバンドが關華石の率いるクインテットでした。1962年から1977年の番組終了まで、《群星會》は上海時代の流行音楽を再び流行らせただけでなく、その後の台湾の中国語流行音楽を発展させる重要な役割を果たしました。
また、その他に軍中康樂隊、政工幹校、それに示範樂隊などの軍楽隊もとても多くのミュージシャンを育てています。例えば、政工幹校出身の孫樸生や、長年ミュージシャンとして活躍し2000年に上海懐メロのアルバムを制作した林承光などがいます。
1953年、日系会社三井に勤務し、タイに駐在したこともある謝騰輝が、台北新公園での「フィリピン空軍楽団」のラテン音楽とジャズの演奏に非常に感銘を受け、アマチュアミュージシャンによる「鼓覇樂團」(Taipei Cuban Boys)を結成することを決心しました。1950年代はキューバ音楽とジャズビッグバンドの組み合わせが最も盛んだった時代です。1953年、日本のラテンバンドTokyo Cuban Boysが、日本の映画〈青春ジャズ娘〉で演奏し、マンボの帝王Perez Prado の名曲(Mambo No. 5)を取り上げています。鼓覇樂團が英語のバンド名を"Taipei Cuban Boys"としたからでしょう、ラテン音楽は彼らの主要なレパートリーになっています。
バンドは、中山北路にあった蜜月堂の2階で練習をしていましたが、ここに多くの若いミュージシャンがメンバーに加わりました。その中には、中國電視台ビッグバンドの指揮兼リーダーとなる林家慶、台灣電視台のドラマー林森元らもいました。鼓覇樂團は1964年プロのバンドとなり、国賓ホテルで24年の長きに渡り演奏を続けました。1964年には謝騰輝の弟謝荔生が率いる二代目の鼓覇樂團が豪華酒店での演奏を開始、彼らは後に台灣電視台で演奏するビッグバンドとなりました。
1960年、中華民国交通部が「觀光事業小組」を結成、台湾の観光業が勃興し始めました。1962年から1971年にかけて、ホテルと夜総会(Night Club)が相次いで営業を開始、ミュージシャンの需要が大幅に増えました。仕事のチャンスが増えただけでなく、多くのリーダーとなるミュージシャンも育ってきました。例えば第一酒店のバンドリーダー翁清溪、第一飯店漢宮餐廳の鄭萬樣、喜臨門の吳光麟、それから中央酒店の詹聰泉らです。
その中でも最も有名なのは、台湾音楽界のゴッドファーザーと呼ばれる翁清溪(1936-2012)でしょう。彼は、もともとサックスとクラリネットの奏者でしたが、バンドリーダーの役目も務め、關華石や林禮涵とも一緒に仕事をしています。彼の制作した映画音楽、作曲、編曲は無数にあり、万能なスーパーミュージシャンであったと言えます。1990年代末、翁清溪は過去共演したことのあるミュージシャンを総動員し、「台灣爵士大樂團」を結成しました。そして新しくビッグバンドのために編曲された作品を収録し、アルバム2枚を発表しました。《Jazz Walk》の第一集と第二集です。これは翁清溪の集大成となる最も重要な作品であり、台湾の戦後戒厳令の時代のビッグハンドジャズの重要な記録であると言えるでしょう。
アメリカ軍は、1950年代に台湾での駐留を始め、最も多いときにはその人数は、1968年から1970年の間に、約30,000人に達しています。このアメリカ軍のレジャーと音楽の要求に応じ、各地にアメリカンクラブが設立されました。そして、多くのフィリピンのミュージシャンが台湾に来て演奏をするようになりました。彼らと台湾のミュージシャンとの交流は、音楽教育上のもの、編曲での協力などもありましたが、最も多かったのはお互いにバンドメンバーとなり共演したことです。例えば、Romy Yamsuan、Terry Undag と台湾のピアニスト楊燦明、サックスプレイヤー蕭東山が星船餐廳でのライブで共演しています。Ben Rigor 、 Met Francisco、Chris Villaらも台湾のピアニスト黃明正、ドラマー林森元と一緒にジャズアルバムの録音をしています。
全体を俯瞰してみると、当時のジャズ界の様子と雰囲気はジャズ、ラテン音楽とポピュラー音楽が共存していた時代と言えます。1950年代にはマンボやチャチャなどのラテン音楽が流行し、1930年代に起こったビッグバンドの音楽が、引き続き盛んでした。その一方で1960年代に台湾の観光業が勃興し始めています。上海時代の音楽も復興し、中国語の歌謡曲と融合して流行を築いていきます。これらの音楽が、夜総会の華やかな世界を彩りました。
この様な流れとは別に、学究的な立場から現代音楽としてのジャズを演奏しようとする音楽家もいました。ピアニスト黃明正がその一例です。彼は幼少期からギターとピアノを学び、高校生の時にはアメリカンクラブや各地の夜総会での演奏を始めています。1960年代にアジア各地での演奏を行なったクラリネット奏者Tony Scottは、アメリカのジャズ雑誌<Down Beat>で、黃明正のことを「東南アジアで最も優れたギタリストである」と絶賛しています。黃明正はその後ピアニストとしてのキャリアに集中し海外留学もしています。帰国後はコンボバンドとピアノソロの演奏を主に行いました。1980年代には東吳大學の音楽学科での教職につき、合わせてジャズライブやジャズの講座も続けています。
感想
戒厳令の時代というのは、とても不自由でジャズの勉強など出来なかったのではないかと考えていましたが、この様な時代でも海外でジャズを学んだ音楽家がいたのですね。
また、テレビの勃興に合わせてビッグバンドのニーズが現れたこと、ラテン音楽の流行などは日本の音楽シーンの事情とよく似ているように思います。
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