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【台湾の面白い建物】寶藏巖の物語(その二)

前回説明した様な経過を経て、寶藏巖は住民の陳情により、その集落が残されることになりました。今回は、そのことが決定されてからの動きを見てみます。

台湾大学建築都市研究室によるフィールドワーク

台北市により、寶藏巖の住宅群が保存されることが決まると、台湾大学の建築都市研究室に依頼し、先生と学生たちがこの場所のフィールドワークをすることになりました。そして、この台湾大学の研究結果を経て、この集落は撤去すべき危険な建物群から、保存すべき歴史的建造物であると新たに定義付けがなされました。

「公館小觀音山下寶藏巖聚落為戰後臺灣城市裡,非正式營造過程所形成的聚落,是榮民、城鄉移民與都市原住民等社會弱勢者,在都市邊緣山坡地上自力造屋的代表,有歷史的特色。」

Wikipedia

「公館小觀音山の麓の寶藏巖の集落は、戦後の台湾の都市の中で、正式な手続きを経ないで形成された集落である。しかし、外省人の退役軍人、他の地域からの移民都市の原住民などの社会的弱者が、山の斜面に自らの力で建てた、歴史的特徴のあるものである。」としています。

この様な見解をもって、寶藏巖保存の法的根拠を得ることができました。

剝皮寮歷史街區

台北の旧市街地、龍山寺の近くに"剝皮寮歷史街區"があります。これは、台北市の計画した歴史的街並み保存の、比較的初期のプロジェクトです。今賑わっている迪化街の、原型となっている様な場所です。龍山寺の近くですから、この場所も清朝時代から商売人の集まる地域として賑わい、その頃の商家の建物を保存リノベーションしたものです。
写真で見る様に、建物のファサードも内部空間も全て綺麗に整備されています。しかし、この施設はどの様にして使われているかというと、それがよく分からないのです。いくつかのスペースには店舗が入り、民芸品売り場になっていたり、ギャラリーになっていたりします。しかし、多くのスペースは空いたままです。

ここは元々は、商家であったはずですが、その様な商業施設の雰囲気はほぼ消えています。迪化街の様な、古い街並みが昔ながらの商業活動を営んでいるという気配がないのです。
僕は、この場所を訪ねてその様な感想を持ったのですが、それと同じ様に考えた人物がいました。中華民国文化部の初代部長、龍應台女史です

ファサードは綺麗に整備されていますが、
商業活動は見られません。
若干のテナントは入っています。
この騎樓の室内側は使われていませんでした。

中華民國文化部長、龍應台

2012年に中華民国文化部が設立され、龍應台女史がその初代部長に就任しました。そして、これらの古い建物の整備計画も管轄する様になりました。その時点でこの剝皮寮歷史街區は既に完成しており、彼女もその実績を視察しました。その時、彼女はこの様に感じたそうです。「これは、建物だけが残されていて、人間の活動がなくなってしまった。まるで抜け殻の様な施設になってしまっている。この様な歴史地区の再建計画は見直さなくてはならない。」

龍應台女史はそもそも小説や随筆を書く、著名な文筆家です。そして、政府に要請されて文化部長に任命されていました。その彼女が自らの感性でこの様に感じ、考えたわけです。

この剝皮寮の整備計画の際、台北市は所有者からこの建物を買い取り、自らの持ち物にして、所有者には別のところに移ってもらいました。そのため、元々この場所にあった人間の活動は全て失われてしまいました。
この様な手続きをとった結果、建物のみが市の持ち物になっていて、元々の所有者は住んでいないので、龍應台女史の感じた印象は仕方のないことです。しかし彼女は、これに違和感を持った。建物というハードを残すだけではなく、そこにあった人間の営みもキチンと残さないといけない。その様に感じたのだそうです。

寶藏巖には住民を残す

その時点で、寶藏巖も台北市の歴史的街並みとして保存することが決まっていました。しかし、剝皮寮の視察をした龍應台氏は、ここを住民を残す様な形で保存する様、方向転換をしました。
その際には、建物の安全性を再検討する、この建物を市の所有物とした後に、あらためて住民に住まわせる等、いくつもの行政手続き上のハードルがあったそうです。何しろ、元々は危険な建物のため撤去することが決まっていた住居群を、市の正式な文化財として使い、運営していく様にするわけです。この様な抜本的な方針転換というのは、彼女の様な外部から来た人間でないと、なかなかできなかったのではないかと思います。

芸術のインキュベート施設として

寶藏巖の住居のうち、新店溪の河岸に近い部分は当初の計画の通り撤去することになりました。新店溪の河岸の公園として整備すること、災害への配慮などがその理由です。そして、比較的高い部分にある住居群は残されました。ですので、寶藏巖から見ると最も奥にある西側のエリアは、今でも元の住民がそのまま住んでいます。

そして、中央のヴォリュームゾーンは、芸術村として整備することになりました。新進のアーティストに対して、台北市がアトリエ、作業スペースを無料で貸し出しています。毎年一定数のスペースに対して公募をかけ、審査を通った有望なアーティストにこのスペースを使わせているわけです。そのような芸術のインキュベート施設として利用しています。
中には若干の店舗スペースもあり、そこでは主に寶藏巖の住民が店舗経営をしています。その他、ギャラリー、寶藏巖の歴史を紹介する展示施設などもあります。

コミュニティーが残った

現在の台湾の多くのリノベーション施設は、この寶藏巖の様に住民が残るケースと、全く残さずにテナントスペースとして貸し出すケースと2つある様に思います。寶藏巖の様に元々住民がいた場合でも、人が出てしまっており、展示施設や店舗になっている場合が少なくありません。それはリノベーション後の利用の仕方と関係しているのでしょう。元の居住者の関係者が運営者として残っているのは、鳳山の黃埔新村や台中の光復新村などで見たことがあります。

それらと比べても、この寶藏巖における住民の残し方はとても画期的である様に思えます。何しろ、昔のまま、自分達の建てたセルフビルドの家に住んでいるのです。そして、この様な人が残っているので、寶藏巖から出て行かざるを得なかった人も、ことある毎にここに戻ってきて、公園で集っています。そう、寶藏巖にはコミュニティーそれ自体が保存されているのです。そして、それが龍應台女史が目指したことなのでしょう。そういった意味でも、この寶藏巖は画期的なリノベーションプロジェクトなのだと思います。

現在の多くの老街のリノベーションは、この様な試行錯誤を経て、元の住民や建物の使用状況をできるだけ保存した上で行うよう、大きな基本方針が定められたのだと思います。大稻埕三峡老街の様子を見ても、街の賑わいや活気はそのままに、街並みが綺麗に整備されていき、地元に観光客を呼び込む拠点として復活していますし、それも継続的に徐々に整備が進んでいきます。

寶藏巖は、その様な方向転換を促す一石となったプロジェクトでもあったのではないでしょうか。そこに住んでいた人を残したまま、整備開発するリノベーション。現在の台湾ではたくさんのこの様な施設が見られます。

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