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僕の設計事務所遍歴

僕は幸か不幸か、設計事務所を4社も転々としてきました。その内2回は自分の希望で、もう2回は会社の都合での転職です。
その度に、スタイルの異なった事務所に勤めているので、建築設計に関わる様々な勉強ができたと思っています。世の中には色々なスタイルの設計事務所があり、それぞれの会社の戦略で設計業務を勝ち取っています。

その様な、様々な設計事務所のあり方と、そこで学んできた内容を紹介してみます。

大学卒業時の就職活動

僕は、大学では学部卒の劣等生でした。成績は、卒業ギリギリの状態で、先生にお目こぼしをもらって、なんとか卒業できるという状態でした。

そんなわけで、建築デザインを学んだ学生が就職を希望する大手設計事務所や、ゼネコンの設計部に応募をしても、だいたい書類審査で落とされるか、面接に行っても、僕の様な成績ではダメだと烙印を押されるという始末でした。
面接先の事務所のことを何も調べておらず、何故我々のところに来たいのかと質問されて、しどろもどろになったこともありました。就職活動のイロハを何も知らなかったに等しいです。

"建築研究会"というサークルに入り、建築の意匠、デザイン面に一生懸命なっていたあまり、それ以外の建築生産とか、第二外国語などが疎かになっていました。多くの同級生が大学3年時に、必要な単位をほぼ取得して、4年次には初めから就職活動に全力で臨んでいた時に、僕は取り残した単位のために授業に出、卒業設計を最優先に考えていました。

そんな状態だったので、卒業の年の1月になっても、就職先は決まっていませんでした。幸いなことに、力を尽くして作成した卒業設計は、その年の卒業設計の次席の優秀案に選ばれ、僕は面目を施しました。しかし、それが決まったのは卒業直前の2月のこと。多くの同級生が、すでに就職先を決めた後でした。

しかし、捨てる神あれば、拾う神あり。卒業設計の指導教授が、僕に就職先を斡旋してくれました。芝浦工業大学の非常勤講師として、設計の指導をしてくれていた岩井要先生が主催する、真建築設計事務所です。ここで設計のスタッフを探しているというので、この事務所の門を叩くことにしました。

真建築設計事務所

真建築設計事務所では、僕は建築設計業務の基本を、徹底的に仕込まれました。改めて考えると、とても稀有なことなのですが、この設計事務所に来る仕事はほとんどが特命で、設計するものは、ほぼ全てが実現するのです。これは、設計業務としてはひどくコストパフォーマンスが高い。記憶しているところでは、実現しなかった案件は、教会堂が一つだけでした。

多くのアトリエ事務所や組織設計事務所が、コンペやプロポーザルといった機会をとらえて、設計業務を受注するのと比べて、岩井先生は全く異なった人間関係から仕事を取っていました。
岩井先生は、キリスト教の教会堂の専門家という方向性で、事務所の運営をしていました。岩井先生は元々昔逓信省と呼ばれていた、郵政省の技官としてそのキャリアをスタートさせています。そこで経験を積んだ後、逓信省の下請けの設計業務を受けることと合わせて、父親が新島学園の著名な教育者"岩井文雄"であること、弟がキリスト教の牧師"岩井健作"であることから、プロテスタント教会関係の仕事を継続して受注していました。
その仕事は、教会堂の設計、その他キリスト教関係の施設、YMCAの建物など様々なものがありました。これらに加えて、定期的な個人住宅の仕事もありました。僕は大学卒業したての新人であるにも関わらず、この住宅案件を任されました。

所長の他に、設計スタッフ4名、事務員1人という小さな事務所であるにも関わらず、堅実な仕事が定期的に入ってくる。小さな所帯なので、どの案件も全員で取り組む。その様な環境のなかで多くのことを学んでいきました。

岩井要先生の書いた、教会堂設計に関する本。

岩井先生の父親の文男さんは、Wikipediaで紹介されています。

林鎮鯤建築師事務所

真建築設計事務所では、台湾への留学の機会を与えてもらい、その後いくつかの偶然が重なり、僕は台湾の設計事務所に勤めることになりました。
年齢としては、30歳から34歳までの時期です。僕にとっては、この期間は、日本で学んだ設計業務の経験を元に、台湾で設計業務に臨むという、次のステップのトレーニングの期間だったと思います。

僕にこの機会を与えてくれたのは、林鎮鯤さんと言います。林さんは日本の筑波大学で建築を学び、日本の設計事務所でしばらく働いたのちに、台湾で自らの設計事務所を開設しています。その様な経歴から、日本人の建築士が(僕はこの時点で一級建築士ライセンスを取得していました。)台湾での就職を希望しているというので、彼らの設計スタッフの仲間に加えてくれたのだと思います。

この設計事務所には、設計スタッフが20人ほど、総務や工程部などのスタッフも加えると30人ほどいましたので、真建築設計事務所よりは大きな所帯でした。

ここで学んだことは、台湾という外国における設計の実務、日台間の建築文化の違い、更にはこの時代台湾の方が進んでいたCADによる設計図書作成業務などです。
それに加えて、建築の仕事を中国語で行う能力も培うことができました。簡単なプレゼンテーションから、施主との打合せ、中国語による設計図書の読み取りと作成など。語言中心で学んだ中国語を、On Job Trainingでブラッシュアップさせることができました。
現在、僕が日台間の建築に関わる業務をコンサルタントとして処理することができる様になっている、異文化間の架け橋となる基礎的な勉強をしていたと思います。

丹下都市建築設計事務所

この様に、日本の設計事務所でも、台湾の設計事務所でも働いた実務経験のある僕は、日本に戻って仕事を探すことが比較的容易でした。たまたま、この時期台湾でコンペで最優秀賞を取っていた丹下都市建築設計事務所に連絡を取ったところ、一次面接をすんなり通り、二次面接も合格、最後には丹下健三先生による面接に進みました。そして、入社が認められました。
この事務所では、継続して国内外のプロジェクトに関わっているので、僕の様な中国語を扱える日本人建築士を使い道があると考えていたのだと思います。特に台湾では複数のプロジェクトを動かしており、すぐに様々な業務に関わることになりました。

丹下事務所の業務スタイルは、言うところのアトリエ事務所スタイルなのだと思います。丹下健三先生と、その頃は息子さんの丹下憲孝さんが事務所を運営していましたが、とにかくネームヴァリューが高い。世界で通用するデザイン事務所とはこういうところなのだと色々勉強になりました。
真建築設計事務所とは異なり、コンペで世界中のデザインファームと競い合って、設計案を勝ち取るのです。もちろん、最優秀案となることもあれば、落選することもあります。規模の大きい政治絡みのプロジェクトが多いので、途中で暗礁に乗り上げてしまうこともしばしばです。

そんな中で印象に残っているのは、この事務所では、ベテランも新人も、丹下先生の前では同格だということです。あるデザインがある場合に、丹下憲孝さんは、それが誰が作った案かを問わないのです。ですので、取締役が自ら模型を作ったり、新人が考えたアイデアが採用されたりするのです。とにかく、デザインアイデアが優れていれば、それを採用する。丹下先生はその審美眼を持っていることが大事で、そこに属人性はほとんどなかった様に思います。

ですので、この事務所で、デザイン能力が優れているメンバーがひしめく中で、僕のアイデアが採用された時には、とても驚きました。
この様な世界に名だたる設計事務所で、自分のデザインアイデアが採用されたというのは、僕の建築デザイナーの自意識に、少なからず自信をもたらしてくれました。

僕のデザインアイデアが採用された、統一国際ビル

佐藤総合計画

4つ目に勤めた設計事務所は、佐藤総合計画です。この会社では、北京オリンピックの開催される前に、中国国内で複数のコンペを勝ち取っており、更に中国のコンペに加わる状況だというので、丹下事務所で人員削減にあった折に、ここで働いている大学の先輩を頼り、働かせてもらうことになりました。

この設計事務所は、日本の組織事務所の中でも、特別なスタイルで仕事をとっています。ここでは、圧倒的多数の設計案件が公共建築なのです。それは、日本国内、海外を問わずです。
得意な設計のジャンルがあって、音楽ホール、コンベンションセンター、スタジアム、病院、図書館、学校などです。このうち、私立の病院や学校などでは特命で仕事が来ることもありますが、ほとんどはコンペやプロポーザルで仕事をとっています。
そして、その勝率が何と50%ほどにもなるのです。営業チームが仕込んできた案件を、充分に下調べをし、デザインの方向性を定め、審査員の傾向と対策まで考えて計画案を提示する。この様な地道で戦略的な取組みをすることで、勝率50%という驚異的な数字を誇っていました。

これは、丹下事務所の設計プロジェクトの実現率と比べると圧倒的に高いわけで、それだけ人的資源の有効活用につながっています。

佐藤総合計画では、中国のスタジアム、台湾のコンベンションセンター、日本国内の学校建築や公共オフィスなどの設計に携わりました。
ここで学んだことも多岐に渡ります。先に述べた様な、コンペやプロポーザルへの戦略的な取組み、この事務所は、内部に構造や設備の部門を抱えていましたので、彼らとの共同作業。更に工事監理部門があったので、監理スタッフの一員としての仕事にも関わりました

多様な設計事務所のあり方

僕は自分で設計事務所を立ち上げて、自らのデザインを世間に問うという野心を持っていませんでした。大学卒業の時点から、こんなデザイン事務所で働いてみたいと考えたこともなかったし、将来、建築家として独立するために、そのステップを考えるということもしませんでした。社会に対し、セルフプロモーションをするという意識が全くなかったのです。

それがために、結果として4つの全く異なったタイプの設計事務所に勤めることになりました。僕は、これらの設計事務所では、それぞれに異なったことを学ぶことになったし、それらが全て積み重なった上で、今の僕の能力を形成していると考えています。どの一社が欠けても、今の僕の能力にはならなかったでしょう。

ですので、僕は、世の中の多くの会社はそれぞれに特徴があって、学ぶことが少なからずあるのだろうと、楽観的にそう思っています。今勤めている建築コンサルタントの会社、そこから派遣されている派遣先の台湾の日系ディベロッパー、どちらの会社も、また設計事務所とは異なる、面白い会社の文化を持っています。

僕は決して自分が優秀な人間だとは考えていません。ただ、"中国語で仕事のできる建築士"という戦略を立てたため、この様な面白い設計の仕事をすることができています。
そして、台湾における建築設計業務を日本人の立場でサポートするという面では、他の人材と比較できないキャリアと能力を持っているのではないかと、自負しています。

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