西郷隆盛の遺児が宜蘭に?
2023年11月、台北で西郷隆盛のひ孫に当たる西郷隆文氏の講演会がありました。西郷隆文氏は陶芸家として名をなしている方ですが、併せて西郷家の事績を顕彰するための様々な活動を行っています。
この時の西郷隆文氏の話に、台湾に関わるとても興味深いエピソードがあったので紹介します。
西郷菊次郎
西郷隆文氏の祖父である西郷菊次郎は、京都市長として活躍し、琵琶湖疏水を政策として立案した人物として知られています。一方、彼は日本が台湾を領有した直後に台湾に入り、宜蘭長官としての任にも就いています。
この西郷菊次郎の宜蘭での職務は、4年半にも及んでいます。この間、宜蘭では原住民による原始的な生活の状態から急激に近代化された都市へと変貌を始めており、現在の宜蘭ではこのことを顕彰する活動もあります。
菊次郎という名前
西郷菊次郎は、西郷隆盛の長男です。しかし、彼の名前は菊次郎、日本では長男であれば太郎と名付けられ、次男には次郎或いは二郎と名付けられるのが普通です。
このことについてある伝説がありました。西郷隆盛には、彼が台湾に渡った際にもうけた長男がいるというものです。その子供は、宜蘭にいた平埔族との娘との息子で、台湾が日本に領有された1895年の時点で、存命していたのだそうです。
西郷隆文氏は、この伝説のことを台北で開かれた講演会の中で肯定的に話していました。その様な伝説が信じられていたからこそ、西郷菊次郎は宜蘭を訪れ、宜蘭長官としての職務を果たしつつ、自分の兄に当たる人物の消息を探ったのであろうということでした。
このことは鹿児島の郷土史家も調査していて、書籍としてまとめられており、図書館で見ることができるそうです。
ここでは、台湾のホームページに紹介されていた内容が比較的詳しかったので、それに沿って翻訳紹介してみます。
「西郷隆盛、150年前の宜蘭で」
下記のホームページの内容の紹介です。
https://blog.udn.com/mobile/overseacccjapan/3942504
台湾の人の東京上野に対する印象は、この写真の銅像でしょう。何人かは渋谷のハチ公を思い出すかもしれません。これは、西郷隆盛と猟犬が一緒に外出する姿を表した銅像です。宜蘭版の「海角七號」の主人公であるとも言えます。
西郷隆盛のことに触れると「西郷菊次郎」のことを思い出す人もいるでしょう。西郷菊次郎は、日本統治時代に宜蘭庁の初代庁官を務めた人物で、蘭陽地区に多くの功績を残しています。藍陽渓の治水、湧水の利用など、その功績は多くの人の散歩する遊歩道に石碑として刻まれており、夕日を背景に異彩を放っています。
菊次郎の父親西郷隆盛(1827-77年)は、日本の幕末・明治初期の著名な政治家です。文政10年12月7日、薩摩国鹿児島城下の下加治屋町で生まれました。幕末から明治時代にかけての薩摩出身の武士であり、軍人そして政治家として活躍しました。「敬天愛人」の思想を有し、後代の多くの日本の武士や政治家に影響を与えました。
西郷菊次郎は西郷隆盛の長男です。しかし、日本人は兄弟に名前をつける際、長男に太郎を用い、次男には次郎や二郎を用いるのが通例です。そのため、歴史家は菊次郎には兄がいたのではないかと推察しました。特に西郷隆盛は幕末の時期に、密航して宜蘭の南方奥に渡り、台湾の事情を探索したと言われています。そして、現地の漁師の娘と恋仲になり、子供を持ったとの伝説になっています。西郷菊次郎は、この様な伝説があったため宜蘭に来て長兄の消息を探ったのだと言われており、宜蘭の伝奇的ロマンスになっています。
日本の歴史家は、明治維新の立役者である西郷隆盛が、台湾で現地の娘と恋仲になったというのは、子供のそんなに多くなかった西郷家の中でも特殊な出来事で、日本と台湾の深いつながりを示す一つの歴史のエピソードであると説明しています。
発見された文書によると、当時24歳であった西郷隆盛は宜蘭縣蘇澳鎮南方奧、漁業組合の裏手になる漁港巷41號に住んでいました。台湾大学図書館特別室にある資料のタイトルは「西郷南洲翁、基隆、蘇澳偵察、『寛永4年南方澳子孫残物語』」。昭和10(1935)年、基隆市で発行されたもので、著者は入江晩風です。
当時の南方奥は「寂れた漁村で、浜辺には萱で覆われた小屋が123戸あるだけでした。」西郷隆盛は漁師の老人と琉球出身の竹林氏の家に住んでいました。この3人の家に対して、原住民はとても協力的でした。それで、彼らも原住民と仲良くなり、中でも原住民の娘ローモーとの関係は特に親しいものとなりました。
半年後、西郷隆盛は突然家を離れ、琉球諸島の視察に向かいました。翌年彼が鹿児島から南方奥に戻ってくると、ローモーは長男を出産していました。しかし、ローモーは劉姓の男性と結婚してしまっており、後に男の子を設けています。子供は吳亀力と名付けられました。大正時代、この吳亀力は南方奥の開発に伴い花蓮に移りました。彼はそこで結婚しましたが、子供は授かりませんでした。
西郷菊次郎は、明治30年に当時の宜蘭支庁郡守(知事)に就任しています。関係者の証言によると、菊次郎は「誠心誠意、事情を調査する」と言っていたそうです。この吳氏の写真も調べられています。しかし宜蘭の地元の人はこの伝説については半信半疑でした。西郷隆盛の台湾の遺児に関する伝説は、日本で陶芸家として活躍している西郷隆文氏(西郷菊次郎の孫)も否定しています。
確かに、西郷隆盛の事績を表した年表では、彼が台湾に渡ったことは記されていません。しかしながら、このことを完全に否定することもできません。日本の嘉永3年に「移動茂右衛門の元で陽明学を、無三禅師の元で禅を学ぶ」とあります。そして、嘉永5年「伊集院兼寛の姉と結婚する」との記述を確認できます。しかし、嘉永4年の出来事は何も記されていないのです。
台北に生まれ蘇澳のことを研究している竹中信子女史は、「この遺児のことは本当にあった」と書いています。彼女の記した「植民地台湾の日本女性生活史」には、菊次郎夫人の話として、西郷菊次郎が宜蘭縣郡守の時に、この西郷隆盛の遺児のことを話していたと記しています。夫人の親友桜川似智は、彼女は「嘘をつくような人ではありません」と言っており、竹中女史はこの証言は真実であると信じています。
西郷の子孫が遺児のことを調べているという記事は他にもあります。台湾日日新報が、大正13年に記載した連載記事に「南海秘史、蘇澳に於ける南州翁の事蹟」と題した内容があります。当時、記者藤崎済之助が、宜蘭郡守を取材したものです。そのインタビューの中に、5月8日以降の8回の記事で次の様に記しています。「菊次郎の使用人への取材で、菊次郎は台湾人のことに関して南方奥の原住民と何度か面会をしている」、「話の内容は「菊次郎の兄」についてのことである」との証言が得られています。
今でも台湾宜蘭縣には、「西郷隆盛の長男」に関する話が伝わっています。日本で西郷隆文氏の陶芸作品を鑑賞する際に、この日本と台湾のロマンス」に想いを馳せる人がいるでしょうか。
私見
僕は歴史研究家ではありませんので、西郷隆文氏によるこの様な話があったということと、それに関する台湾の記事を紹介するにとどめます。最後に、簡単な印象を添えておきます。
個人的には、この西郷隆盛の台湾への探索があったとして、これが島津斉彬の指示による台湾調査であったとは考えにくいのではないかと思います。嘉永4年というのは1851年、幕末の風雲が吹き荒れるよりもずっと前のことです。黒船来航が1853年、高杉晋作が上海に密航するのが1862年です。台湾でローバー号事件により原住民とアメリカの衝突が起こるのは1867年、おおよそこれ以降の時代、台湾は欧米に注目される存在になっていきます。
この様な歴史的経過の中で、1851年の時点で台湾に注目して探索させるというのは、いくら先見の明のある島津斉彬でも考えが及ばないのではないでしょうか。
そして、仮に台湾への探索であったとしたら、目的とすべきは廈門の対岸にある台南府でしょう。清朝と欧米の外交の最前線は、台南の清の衙門と欧米の領事館であったでしょう。アヘン戦争の後台南府も開港を迫られ、諸外国の領事館が置かれています。宜蘭の漁村にいたのでは、世界の外交問題を調査しようにもやりようがありません。
宜蘭に来て調査するのであれば、琉球王朝の辺境地帯を調査して、清朝と琉球の関係がどの様になっているのかを把握する。その様な目的であれば、宜蘭における漁村のフィールドワークというのは意味がありそうです。
しかし、その様な調査で私生児を設けてしまったのであれば、西郷さん宜蘭でちょっと羽目を外してしまったのかもしれませんね。台湾の原住民の客人への歓待は、今でも小米酒を振る舞って酔い潰れるまで飲ませるというものです。この原住民の生活スタイルは昔の宜蘭でも同じだったかもしれません。
180年前の宜蘭で起こった出来事とその後の経緯に、今でも多くの人間が関心を持って調査を続けていることになるとは、その時の西郷さんは考えてもいなかったでしょう。