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【台湾の地質環境】基隆河

台湾の地質環境について最初に疑問を感じたのは基隆河の流れるルートです。
以前紹介した員山子分洪道を調べたときに、この場所は、この河の流れで海に最も近いところであると説明しました。このことはよくよく考えると不思議です。日本の河というのは、大体において島の中央付近にある山脈を水源としてだんだんと海の方向に流れていきます。利根川、信濃川、淀川いずれもそうです。少し変わっているのは四国の中央を横断する吉野川ですが、それにしても途中に海に接近するという風にはなりません。

この基隆河の流れの形状と、海に近い場所が河の中流にあるというところにまず興味が湧きました。

基隆河の流れ

基隆河という河は、名前に基隆とついており、台北にいると基隆方向から流れてくるので違和感はないのですが、よくよく見てみると、基隆には少ししか重なっていません。河下から上流に向かうと基隆にぶつかった途端にUターンをしているのです。そしてランタン上げで有名な十分に向かう鉄道平溪線のある平溪に向かいます。

Uターンする基隆河

そして、河がこの様な形をしているために、員山子分洪道ができるまでは、このUターンをしている部分、瑞芳や七堵、さらに下流の汐止や内湖という地域までが常に洪水に襲われる心配を抱えていました。それは広大な流域面積に降る台風などによる大雨が、この細い河幅に集中するからです。
あるWebページではこの状況を、漏斗に集めた水を細いパイプに集めるようだと表現していました。汐止で堤防の水位表示を見たときに、実に17mという表記がありました。水の高さがそれほどまでに上がる恐れがあったということです。

17mの水位表示のある堤防

基隆河の形成史

そのような不思議な流れの河なので、この河がどのような経緯でできたのかを調べました。そうしたところ、また不思議な事実が分かりました。この河は元々基隆に流れる東に向かう二本の河と、台北で北向きに流れるもう一つの河、の3本の河だったというのです。下記のHPにある内容を日本語に訳すと次の様になります。

「下記の図から分かるように、現在の基隆河ははるか昔、実はA、B、Cという3本の独立した河であったと考えられています。基隆河の成立する過程を3段階で説明してみましょう。

  1. 独立した3本の河の時代:A河は古代の新店溪の支流でした。B河は基隆附近で海に流れ込んでいました。その支流は八堵付近から瑞芳に向かっていました。C河は瑞濱から海に流れていました。(図1)

  2. 河川争奪:B河の支流がだんだんとC河に侵蝕され、C河に近づいていきます。そして最終的にはC河を「争奪」し、S字カーブを描く一つの河となりました(図2)

  3. 湾曲した河の流れ:台北盆地が陥没した後、東が高く西が低い地形となりました。そのため、B河が西に逆流してくることになり、A河とつながり、現在見られる河の流れとなりました。(資料ソース:臺北地質之旅,遠流出版社)」

図1
図2
図3

この説明にはいくつかのキーワードがあります。「河川争奪」 「台北盆地の陥没」「東が高く西が低い地形」。これらのことは、また追って説明していきます。

この様な経過をたどって、もともと太平洋側に流れていた河の流れが、Uターンをして台北盆地に流れてくることになってしまったというわけです。そのために海の近くまで行った河が、そこで堰き止められるようにして、方向を変えてしまった。
日本でいう河川争奪というのは、もっと規模の小さいもので、この様な河の流れのUターンを促すようなものはありません。

地形の大変動

この様な地形の大変動が起こっているのが台湾という土地の特徴です。何気なく見ている河の流れのなかに、ダイナミックな土地の変化の歴史があることを知ることができます。



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