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【流儀】雑であることがチームを強くする理由

個人事業主の集まりみたい…

これは、ある日の社内ミーティングの雰囲気を表したスタッフの発言です。各々が勝手に動いていてまとまりが感じられないという意味合いで、おそらくネガティブに捉えて言ったと思いますが、私はその言葉を良い兆候だと感じ、ポジティブに受け止めました。これを聞いてもしかすると、「こいつは何を言っているんだ」と怒る人もいるかもしれませんが、順を追って説明させていただきます。

チームが機能するよう最低限のルールが守られている上での話ですが、まず前提として、各々の役割や強み・弱みが全員で理解できていれば、必要以上にまとまらなくて良いと考えています。次に、そもそもスタッフ一人ひとりが会社や地域を良くしていこうとする気持ちを持っており、それを私が知っているので、特に心配することではないと思いました。

従来の日本の会社などの組織は同調圧力が強く、少数意見を持つ人に対して周囲の多くの人と同じように考え行動するよう暗黙のうちに強制しているところがあります。これは義務教育期間から続くものだと思われますが、スタッフの発言から社内がそのようにはなっていないと感じられました。このあたりのことも後述しますが、私はスタッフの発言から彼らが「プロフェッショナルになろうとしている」と解釈したのです。

ドライだがプロフェッショナルな関係

私はこれまでに、アルバイターから会社員、個人事業主、会社経営者として一通り歩んできましたが、一番居心地が良かったのは個人事業主が集まりプロジェクト毎にチームを組んでいたときでした。そこには誰かに雇用されているなどの上下関係は存在しません。共通の目的を有する仲間がそれぞれに明確な役割を持ち、その役割に責任を持ち、果たしていきます。

愚痴や不平不満を言い合うなどの馴れ合いはせず、各々の立場からきちんと意見を言い合います。「自分はいくら欲しい」と報酬も明確に提示します。基本的に仕事の関係ですのでドライな面もありますが、パワハラのような力は働きませんので空気が澱むことがありません。ただし、結果を出さないと周りは認めてくれませんし、報酬も得られません。

Team(チーム)の意味

「team」の意味を調べてみると英和辞典の一つに、「共通の目的達成のためにそれぞれ違った貢献をする人の集団」と書かれています。まさに、前述の関係はこれにあたります。ここで重要なのが、共通の目的がある上で、“それぞれ違った貢献をする”と書いてあることです。

日本の義務教育や多くの職場では、同じスキルや意見などを求められ、さらに昼食も残業も一緒などと理解できないことにまで陥っていますが、そもそものチームとは、皆が同じ貢献をするものではないということです。一つのチームとして機能させるためには、色んな考えや能力を持った個人が集まったほうが組織として強いのです。

ちなみにかなり昔の話ですが、一時期の読売ジャイアンツが、4番バッターばかりを集めた結果、試合にまったく勝てなかったことがあります。ここから学べることは多く、野球で言うところの一番から九番まで役割に応じた能力で、多様な考えを持つ人材を揃えることが組織或いは会社の強さにつながるのだと言えます。逆に多様性がないと弱いとも言えます。

「私はあなたではない」という非常に簡単な答え

ここで個人的なことを話しますが、たとえば5人以上などの大人数でいる際に、私は日本の友人たちと居るよりも海外の友人たちと居るときの方が心地良さを感じます。なぜなら、一人別行動をしていたとしても放っておいてくれるからです。きっと何か事情や理由があるのだろうと考えてくれます。

しかし、私の過去の日本の友人たちの場合は、私が一人別行動をするとなぜ自分たちと違う行動を起こすのか理解できないようで、問い詰めてきます。私の答えは単純で、それは「私はあなたではない」からです。それ以上でもそれ以下でもありませんし、そうしたいからしただけのことなのです。

ですが、“みんな一緒”と考える人たちにはそれが理解できないのです。理解できないと今度は、「あいつは協調性がなくてダメだ」「あいつはおかしい」と攻撃し始めます。まるで、自粛警察です。学校や社会にあるイジメもこのようなことから発生するのだと思います。人の行動を制限して何が楽しいのか私にはわかりません。

私はこのような協調性を求められることに嫌気が差し、だいぶ前にそのような人たちとの付き合いは無くなりました。もちろん、日本にも協調性を求めない友人はいるので、彼らとの付き合いはそのままです。私を放っておいてもくれる友人は私にとって大切な存在です。

違うことはいけないことだと教えてきた日本に多様性は根付くのか

近年、ダイバーシティ&インクルージョンとして、性別や年齢、障がい、国籍、宗教、価値観などそれぞれの個を尊重し、認め合い、一人ひとりが活躍できる機会を増やしていこうという考えが広がっています。これに関して、非常に良い考えで傾向にあると思いますが、私は果たしてこの考えが浸透するのかと一抹の不安を覚えます。

英語圏の国の会社などにおいて、出生国が違うなどは当たり前のことで、人それぞれに歴史も文化も異なります。ですから、ここに同調を求めると苦しくなって当然ですし、違って当たり前なのでそもそも求める意味がありません。しかし、日本では「違うことはいけないこと」だと教わってきてしまっただけに、この考えを受け入れ、根付かせることは非常にむずかしいのではと考えてしまいます。

人間関係はちょっと“雑”なくらいでいい

昨今のSNS等での誹謗中傷問題からわかる通り、日本人は他人に対してなぜか興味を持ち過ぎているところがあります。おそらく他人を意識し過ぎで、「なんであいつだけいい思いをしているんだ」「叩いて落としてやれ」などと、自分と同じ境遇にさせてやるといった劣等感からくるものだと思います。

筑波大学准教授やメディアアーティストなどとして様々な顔を持つ落合陽一さんは、多様性について「適度に雑でいること」が理想的だと言っています。これは、人の扱いはある程度雑なくらいが上手くいくということで、他人に気を留めないとか放っておくことだと私は理解しており、強く共感しています。

従って、他人に必要以上に興味を抱かない(自分と同じことを期待しない)ことが多様性への第一歩であり、会社などの組織においても、その意識が多様性のあるチームとして成長する大事な要素だと考えています。私もスタッフには、適度に“”でいてくださいと話しています。マニュアルやルールでガチガチな働き方をしてきた看護師だからこそ、多様な働き方をする私たちの会社では少し雑なくらいがちょうど良いと思うのです。


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