モアイと私と恐怖の思い出

不意に思い出す光景。

少年の時分。
私は、祖母の家に行くのが苦手だった。
その理由は、玄関先や居間に飾られた異国の珍妙なオブジェの数々だった。
アフリカっぽい、顔が異様に長いトーテムポール様のもの。
椰子の繊維を髪に見立てた、牙を生やした面。
夥しい数、飾られた「それら」。
恐らく、皆さんの頭に浮かぶ光景の十倍はあったろう。
下駄箱の上を占拠する、数十体の木彫りの人形。
それらは不気味で、居間で寝ることを拒んで祖母を困らせたりもした。

少年の時分を過ぎ去り。
学生服を着る頃合いになっても、やはり気持ちの良いものではなかった。
どうにも、見た目がオドロオドロしいのだ。
アフリカでは、子供に忌まわしい名前をつけて魔除けにするんだっけか?
そういった意味では、魔除け的な意味合いが強いのかな?
などと当時の自分も想像してはみたが、今となってはおぼろげな記憶でしかない。
今まで忌んできたものについて、祖母に聞くのも恥ずかしかった。

そうこうしている内に、祖母が亡くなった。
その時期。
私は受験で祖母の家から足が遠のいていたので、何とはなしに後ろめたさを感じた。
親族の不幸も立て続いており、受験を控えた私は「忘却」する事を選んだ。

それから。
20と余年が経過して、唐突に祖母宅の玄関先を思い出したのだ。
なぜ今さらなのだろう? と思いつつ、当時に怖がっていた自分が滑稽でもあり。
そもそも、どうしてあれほどのオブジェがあったのかに想いを馳せてみた。

後出しジャンケンのようで恐縮だが、私の祖父は船乗りであった。
しかし。
「祖父といっても二人いる」という事実に行き当たり、説明を断念しようかとも考えた。
が、その必要は無かった。
父方の祖父は、軍艦乗り。
母方の祖父は、貿易船乗り。
俺は「横浜生まれの横浜育ち。父も母も横浜出身で、祖父は両方とも船乗りでした」という定番自己紹介を持つ、生粋のハマッ子なのだ。
「横浜」と「船乗り」が、どう繋がるか自分でも分からないが。
イメージ的には、間違いなく近いニュアンスの単語だと思う。
なんとなく、である。

話を戻すと。
先に話した祖母は母方の祖父、貿易船乗りの妻である。
祖父は、遡ること十年余。
私が小学生の時分に亡くなっていた。
私が「祖母の家」と言うのは、祖父の記憶が曖昧だからである。
ベッドで寝ている祖父しか覚えていない。

私の母親が語るエピソードで、こんなのがある。
「昔。バナナは高級品で、手に入らなかった。お爺ちゃんが日本に帰ってくると持ち帰ってくれるのが楽しみだった。当時は、そんなに甘いものは無かったから嬉しくて誇らしかった」
なるほど、そういうこともあるのか。

「だから、海外土産が多いのだな」ということには、当時も気付いていた。
そこに気付けないようでは、私はあまりに間抜けである。
ただ、「どうして、こんなに怖いものばっかり」という疑問は残っていた。
幼少時における恐怖の記憶は、そうそう簡単に拭い去れるものではなかったのだ。

しかし、今となっては当時の自分を笑える余裕がある。
そして、私自身が祖母が亡くなった年齢の折り返し地点を越えている事実に気付いた。
そう。
気付いてしまえばなんと言うことは無い。

「夫(祖父)が買ってくれた土産を飾ることに、理由など要らない」のだ。

私の中では、ベッドで穏やかに笑う祖父のイメージしかないが。
洋行を繰り返す祖父は、家を空ける期間が長かったに相違ないのだ。
海外から帰るたびに、日本では見かけない物珍しい土産物を買っただろう。
そうやって増えていく土産物を、祖母はどんな気分で見ていたのだろうか?
そして。
祖父が亡くなった後も、それらと共に暮らしてきたのだ。
孫が怖がったからと、押入れに仕舞えるような品ではないのだ。
むしろ祖父と過ごすより長い期間を、土産物たちと生活してきたのだから。

そのことに気付いて。
若かりし自分の無思慮な言動に恥じ入っているかと言えば、そうでもない。
気付けなかったことは、罪ではないと思うのだ。
むしろ「気付けてよかった」と思う。

幼少時における祖父母と言うのは、絶望的に価値観が違うと思っていた。
いや、「信じ込もうとしていた」というほうが正しいか?
しかし。
行動指針や行動原理は、老若に関わらず似たようなものである。
そのことに気付けて、なんとなく祖母を身近に感じられた。
雨の降る日。
無為に読書や思索に耽るというのも、案外に宜しいものである。

――こういうことを書くと心配される傾向がある自分の、普段の言動こそ恥じるべきである。
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喜多仲ひろゆ
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