「宗教の起源」についての私見

貴重な、「記憶が曖昧なころ(去年の11月)」に書いた文を発見しました。
それはそれで興味深いので、ヤバそうなところだけ修正して上げます。
タイトルからしてキワッキワやな。
読み返したが、なんか今とあまり変わらんな。
むしろ、ずっと同じこと考えてたんだな俺……。

最初にお断り。
強い信心を持たれる方が読むと、不快になられると思います。
極めてロジカルに語っているつもりですが、無意識の内に嫌悪している部分が出てしまう可能性があります。
特定の宗教用語(例えば「免罪符」だったら、特定の宗教ですよね?)も使わないつもりです。
※北欧神話の死生観については「宗教ではない」と思ってるので記述します
最後まで読めば、私は宗教を渇望していることが分かるでしょう
ただし、ディベートや勧誘は受け付けておりません
自分で見つけますので、悪しからず。
どうか、あなたの信心を失わずに、私には構わずにいただけると幸いです。
以下、本文。

宗教は、何のための存在か?

一つめの意義。
「悪い行為に対する抑止力」という側面がある。
独自の宗教観や唯一神などを持たない日本では、「悪いことをすると地獄に落ちるよ」と子供に教える。
地獄絵図などを見て、子供心に恐怖を抱いた人は少なくないだろう。
だが。
それは極東の島国だから成立する考え方で、大陸など地つながりで言葉の通じない隣人(国)との間では成立しない。
もっと体系だった「悪いことしちゃダメ」というロジックが必要だろう。
それが「宗教」だと、私は思っている。

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、「ただ生きるのではなく、善く生きる」ことを説いた。
「神のみぞ知る」という言葉からも神の実在は信じていたのだろうが、ギリシャ神話は叙事詩であり宗教的な「教え」は感じられない。
ギリシャ神話のゼウスなどは、単なる女好きで恐妻家のオッサンであることは周知のことと思う。
日本神話も、また然り。
時の権力者が、自分の権威を証拠づけるための歴史書である。
もしくは、とある人間の行動が口伝されるうちに誇大化したものだと思っている。

話を戻してソクラテス。
「善く生きる」こと。
これを万人が実践できていれば、宗教などいらなかったはずだ。
実際には、二千五百年後の未来人の我々にしても実践できていない。
「人間は、三人以上いれば争いがおこる」というのは、真実だと思う。
それが言葉も思想も違う人間であれば、なおさらである。
「核兵器廃絶」を唱えて、「せーので核兵器を廃棄しましょう」と言っても実現しない。
一国でも裏切れば、世界のパワーバランスが崩れてしまうからだ。

私は「性悪説」を唱えている。
隣人が宝くじで一億円当たったら嫉妬するだろうし、金持ちが不正を行い逮捕されれば気分が良くなってしまう(ニーチェが言う「ルサンチマン」という奴ですね)。
ついでに書くと。
ニーチェが生まれたドイツに、「シャーデンフロイデ」という単語がある。
「人の不幸は蜜の味」という意味の単語だ。
英語で言えば。
One person’s tragedy is another person’s excitement.
訳せば「一人の悲劇は、他の人たちにとっての興奮である」といったところですかね?
一語でそれを表す単語があるという事実は、「そういった資質を万人が持っている」とドイツ人は思った訳だ。

まったくもって、人間は度し難く愚かである。
自分の絶対的な幸せに自信が持てず、他人と相対的に比べることによって幸せを確認する動物だ。
よって、他人が貶められたり不幸になることに快感を覚える。
「世界幸せランキング」で、自分の順位が一位上がるからだ。
現代だとSNSなどで「早稲田大学 コンパ」とかで検索して未成年飲酒者を槍玉にあげるような輩が、それである。
「他人の足を引っ張ることで、負のカタルシス」を得るような人間。
実際、未成年の時分に一滴もお酒を飲んだことが無い人が、どれだけいるだろうか?
※「私は、お酒は飲めないから飲んでない」と主張する方は、何故「飲めない」と知っているのか自問するといい
どこが「性善」なのだ?
しかも正義を振りかざして、英雄気取りだ。
自分よりヒエラルキーの高い人間を、貶めているだけではないか。
小説や漫画などで「人類は地球に巣食うウイルス」というモチーフが枚挙に暇がないのも頷ける。

かく言う私も悪人だ。
自分が悪人だと分かっているからこそ、善行をなそうとする。
倒れている人がいれば声をかけるし、集団暴行事件の現場で鉄パイプで殴られて意識不明の青年を安全な位置まで慎重に移動させて119番し、自分の被服が血まみれになったこともある。
財布や貴重品(スマホ等)は、拾ったら届ける。
※信じてもらえないかもしれないが、自転車通勤の頃だけで財布を5個以上警察に届けている。多分、車道に落ちているのは長財布を後ろポケットに入れたオートバイ乗りなのではないかと推測する
謝礼は辞退する。

「それは善人なのではないか?」と言われたら、そんなことはない。
多人数に鉄パイプで殴られている人間を見て、「自分が巻き込まれなくて良かった」と思わなかったか?
財布の中身を、一瞬でも盗もうと思わなかったか?
実際に、財布の中身は見てから警察に持っていく。
中身が抜かれた財布だったら自分が疑われかねないし……、というのは言い訳だ。
たかだか3万円を盗むことで得られるメリットと、足がついて捕まった場合のデメリットを比較した結果、警察に届けるだけだ。
普通に一万円札が道路に落ちていたら、黙って拾って財布に入れると思う。
落とした瞬間を見たりお釣りの取り忘れだった場合は、声をかけて本人に返すが(両方とも実績あり)。
これでは、とても善人とは言えない。
つまり。
私は「善く生きたいふりをしている悪人」なのだ。

ソクラテスから二千三百年たった時点で現れた哲学者ニーチェは「超人たれ」と説いた。
実践しようとしても、実現は難しい。
他者と自分を比べずに、ただ孤高に高みを目指す存在には、(少なくとも私には)なれない。
人間は社会的な動物だからだ。

そこで生まれたのが「原初的な宗教」である。
「神」という至高の存在と死後の世界を設定して、平易で平民にも分かり易く善行を説いた。
善いことをすれば楽園に、悪いことをすると荒涼とした世界に放逐される。
万人に受け入れられやすいように、平易で分かりやすい言葉で「道徳」を説いた。
「悪いことするとオバケが出るよ」プラス「情けは人の為ならず」メソッドである。
実に合理的に、国境を越えても同じ道徳観を持てる良い方法だと思う。
余談。
北欧神話の死生観については特殊で、彼の土地の貧しさゆえに略奪民族(ヴァイキング)であったのが理由だろう。
「戦士として戦って死ぬことが誉れ」というのは、民族の繁栄を行なう略奪者こそ英雄。
最も死後に優遇されるべき存在であることは、想像に難くない。
戦乙女に選ばれて「ヴァルハラ」に行けるという、栄誉ある職業だ。
もっとも。
武器を持って死んだ戦士以外の者(生産業を営む人や女子供も含めて)が送られるのはニブルヘイムにある「ニブルヘル」であり、戦士のみが優遇されている感が否めない。
処女で死んだ女性がゲフィオン(一説にはフレイヤ)の下に召される理由は不明だが、決してヴァルハラのような楽園ではなく「出生後の生存率が低い厳しい土地で、子供を作らなかった罰」なのか、「貞節な女性」として迎えられるのか?
浅学な私は知らない。
経典がなく叙事詩的な背景が強いので、不明点や矛盾も多い。
宗教のような「体系だった」ものではなく、特殊な死生観と捉えた方が良いと思う。

余談が長くなったが話を戻すと。
でも。
それだって、「持つ者」が「持たざる者」を御すための理屈であろうと愚考する。
「神」の権威を示すためには財力は不可欠だし、道徳が徹底すれば国は安定し「持つ者」のリスクが減るからだ。
曰くクーデター。
さらに。
民度が上がれば国力の増強、ひいては「持つ者」の財産も増える。
「原初的な宗教」というものは、こんな感じで生まれたのだろう。
念のために申し上げておくと。
「持つ者」の為の物という言葉を、私はネガティブに捉えてはいない。
「持たざる者」にとっても、国力が増すことや犯罪抑止力が上がることはメリットだからだ。
Win-Winだろう。


宗教の意義の二つ目。
それは、先にも少し述べた「死後の世界」という設定である。
富豪にも貧者にも聖人にも悪人にも、等しく与えられる結末は「死」だ。
大富豪でも早逝する人はいるし、貧者でも長生きする人はいるだろう。
実に「公平」である。

逆に言えば、「持つ者」にとっては不公平である。
持っていれば持っているほど、不公平感は増していく。
「金は墓場までは持っていけない」からだ。
古代エジプトで、未来に復活するためにミイラになった王たちを見れば明白である。
秦の始皇帝が不老不死の霊薬を求めた、というのも有名な話だ。
こう考えると、「逆ルサンチマン現象(造語)」が起きてて面白く思う。
つまり。
「平民どもが五十歳でも元気なのに、百万人の臣下を持つ朕が三十歳で不治の病にかかるのは不公平だ!」ということです。

そして、宗教の話に戻すと。
原初的な宗教から発展して、宗教組織そのものが巨大化して独立。
「持つ者」となった。
百人の信者が十円ずつお布施したら、一万円。
一億人の信者が十円ずつお布施したら、十億円。
そういうことです。

元来の「持つ者」たちは慌てたことでしょう。
いえいえ、権力闘争的な意味ではありませんよ?
既に幾十世代も経っていますから、「神」は元来の「持つ者」たちにとっても信仰の対象となっていたことと思います。
だから、「平民たちより楽園に行ける確率が上がる」(或いは「平民たちよりランクが高い楽園に行ける」)ように神像等の寄付や、多額の、お布施をしたのではないでしょうか?

そうして。
自分の死への不安を軽減させたり、亡くした親族の死後の安寧を願った。
多少、金銭的な問題が絡んできて生臭い感じがし始めましたが、これは素晴らしいことだと思います。
心の底から(死後の安寧を)信じられる宗教があれば、の話ですが。


逆に。進化した宗教によって、もたらされた害悪
宗教戦争。
信心無き宗教指導者たちの専横。
独自の解釈を加えて、自分に都合の良い宗教を作り出す宗教家
昨今では、(自己啓発セミナー的な)洗脳による信者作り。
米国における「アンビュランスチェイサー」顔負けの、信者勧誘。
※米国では、稼げていない弁護士が交通事故などの救急車を追いかけて、被害者に「訴訟しませんか?」と持ちかける。それがアンビュランスチェイサー。とある宗教団体は、病院から出てきた患者を追跡する。そして、占いと称して「貴方は、病気で苦しまれていますね?」という勧誘方法があった。昔あった「手相の勉強をしています。無料で見せてもらえませんか?」とか「貴方のために祈らせてください」というのもそうだ
現代日本でも宗教法人に対する税的優遇はあるので、カルト的宗教は数多く存在する。
カリスマ性と効果的洗脳手法、世間体を気にせず金やセックス、崇拝されることが大好きな方はやってみれば良い。
あれ? ご神体が無いといけないんだったかな?

私はと言えば、神の実在は信じているが特定の宗教には属していない。
私が信じている「神」という存在は、「予定調和」とか「運命論」と置き換えられる存在だ。
実家の墓は浄土真宗の寺だが、信心は持っていない。
親父の戒名の頭が「釈」で、名の後に「居士」等が無かったから分かった、という程度。
「他力本願」ってのも、信心を持たない者にとっては都合が良い。
強い信心を持つ仏教徒の方々にしてみれば、実にいい加減で腹立たしい宗派だろうが墓に入るのも菩提寺は必要。
結局のところ「金」がないと、墓にすら入れないのである。
「金、金、金の世の中で、泣くのは弱い者ばかり」なのである。
無縁仏や共同墓地という手もあるが、やはり家族を死後も大切にしたいと思うのが人情。
私自身は、「死んだらモノになるので、動物の餌にされようが野に打ち捨てられ」ようが構わない。

でも、生き苦しいのは現実なので、救いがあるなら欲しいとは思う。
ただし。
洗脳されるのは、まっぴら御免である。
※宗教の勧誘者を色々な機会に論破してきたが、彼(彼女)らの特徴は「握力が強い」。論破して退席しようとしても、認めようとせずに腕を捕まえる。女性でも痕が残る程の力で、腕を掴んだら離さない
それを前提にして。

・信仰するに足る道徳的、ロジカルに「善く生きる」方法を示唆する教義
・無料(ここ重要。お布施を強要した時点で、誰かが儲かるシステムに加担することになるから)
・他人に入信を強要させない、懐の深さ
・私の死生観を覆すような宗教
があれば、ぜひ入信してみたいものだ。

以上。

――次回は、「営業職」について書こうと思います。

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喜多仲ひろゆ
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