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私は自由でいたいなあ

例えば個人的にその人が、まじめにしたい、ちゃんとしたいと思うのは個人の自由。
個人のことだから
誰も何も言えない

私の場合は私に関係してこないなら、何も気にしない。
でも、私に関係が出てくることなら、すごい嫌がる。
やめて!って拒否する。

そのくせ、私は自分が逆の立場になったら、かなりふみこむ。
「やっぱり自由にしてるのがいいよね!」とばかりに押しつける。
相手領域に踏み込む
それを気づかないうちにやってるw


そもそも自分の考えてることを、他人も同じように考えてるかはわからない。
嫌だと思ってるかもしれない

世間ではまじめ、ちゃんとしてる、自由でいたいって、市民権を得てるように思うけど、それはあなたがそう思ってるからそう見えるだけで、本当は誰のどの考え方も市民権など得てない。

だから、ちゃんとしたいとかまじめとか自由でいたいとか、自分はそうなんだと思ってるだけでいい。
それを他の人に押しつけない。
みんなも自分と同じようにして欲しいと思うのは、勘違いの上に成り立つ自分勝手な期待。
それに気がつかないと、気がつかないうちに相手を責めることになるよ。
責められた相手は反抗するから、自分の思う通りにはならず、ますます自分にとって嫌な人になるし、自分は自分の考えに固執するから意固地になって、周りがやりにくくなったり、いいことなしw


私はまじめだけど、わりと自由にしていたいタイプでもある。
そんな自分を改めて思ったのは、ある人に出会ったから。
仮にAさんとしよう。
その人と知り合って、「ちゃんとしたい、まじめでいたいと思ってる人がいるんだな」と初めて実感した。

今までは、そういうまじめでちゃんとしたい人って、育った環境とか職場の環境によって、そうせざるをえなかったからそうなったんだ、と思ってた。
だから、自由にしていい環境になれば、その人だってまじめにちゃんとするより自由の方がいいよね、楽しいよねって言うんじゃないか、と思ってた。
でもそこは、私が「あなたも自由でいればいいじゃん!」て、変えられないところだった。
そんなことにやっと気がついた


それまでは、誰でも私の意見聞いたら変わると思い込んでた。
これがまた私の悪い癖!自分のことしか考えてないってやつw
私が間違ってた。
私が何か言おうが、相手は変わらない
ちゃんとしてたいんだ
まじめでいたいんだ
私とは相容れない性質なんだ
なのに
私はその人に
「あなた、そんなちゃんとしてなくてもいいんだよ!」
って押し付けようとした。
そしたらその犠牲になる人が出てきた。
私の言葉に乗せられて行動して怒られた人、発生。
私の「いいじゃん、それくらい」の犠牲になって怒られてしまった。

私が自由をふりかざすと、結局私でなければ他の誰かが怒られて悲しい思いをする。
それはいやだ。
私が自由でいたいがためにやったこと=わがままが、結果として良くないことだったのに、責められたくなくて、巧妙に非難の目をすり抜けて逃げるけど、そのかわりに自分の大事なものが非難される、ということも嫌だから、もう逃げるのはやめよう。
自分勝手に自由を鼓舞するのもやめよう

だから
だから言いたい
Aさんが、「自分はちゃんとしたい」と思うのはいい。
だけど、他の人はちゃんとしたくないかもしれない、もっと楽に自由でいたい、と思ってる人もいるかもしれない、と思ってみてほしい。
「世間の人たちはちゃんとしてるのがいいと思ってる」というのも勘違いだから。

ある特定のグループの中にいると、どうしてもまじめ、ちゃんとしてる、言われたことをきっちりこなす方が、優秀な人って思われるから、難しいかもしれない。
でも
「世間では自由にいたい人もいるかもしれない」
と気づいた時、
「それでも自分はちゃんとしたいか?」と、考えた上での自分の素質なら、その素質にいつも正直にあればいいだけ。
個人として
社会や世間を盾にとらずに。

私も社会とか常識ってオブラートに包んで、あたかも私に正当性があるように見せるの得意だった。
でも、これは完全に間違い
自由でいたい、は、私から見れば絶対正義だけど、それでも広い視点から見ると、完全に個人的な主張。
正当性とかない
個人的見解

それがわかった今は
「ちゃんとしたい」という個人的な気持ちを尊重できる。

でも、まだまだ不十分だなと改めて感じる今日この頃。
反省して前に進もう

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