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量子詩/シン感覚詩の夜明け❷


『伊豆踊り子』(1927年)
『浅草紅団』(1930年)
『水晶幻想』(1931年)
『抒情歌』(1932年)
『禽獣』(1933年)
『雪国』(1937年 )
 
戦後は、確立した文体を、ヨーロッパの文学者に認めさせるため、社交や社会的活動をはじめ、相当な無理をしながら山頂(ノーベル賞)を目指す。川端は戦後ペンクラブの会長を17年も勤め、ノーベル賞をもらう前年に世界大会を誘致している。戦勝国が、植民地主義への反省と、敗戦国の文化を守ろうとする動きがあるのは当然知っていた。とはゆえ アンドレ・マルロー サミュエル・.ベケットに勝ち抜いた力は想像を絶する。川端はポストモダンや魔術的リアリズムを理解し、それをすでに超えていた。
よって私たちは川端康成の小説にこそ、純文学の本質、つまり現代詩の尊い遺伝子が残されているという仮説のもと、この7年間の実験的小説を再解釈し、そこからモダン→ポストモダンの流れを取り戻したいと考える。
 
川端康成は幼い頃、ある種の超能力を、持っていたと言われる。いわゆる神童である。見えないものが見えたり、予言したり、彼の作品の中に時々登場するそうした能力は、自分自身の経験によるものだ。
川端の大学の専門は英文学であるから、当時の時代の変化に敏感だったはずで、若い頃の作品には、モダニズムの影響が散見する。しかし、東洋の古典も、よく知っていたはずの川端は、西洋のモダニズムがアジアの模倣であることもわかっていたし、いずれくるポストモダン、その後の文藝(まだ、名前はついていないが)がどのようなものになるのかを予知していた。例えば『雪国』37年に一度完結している、しかし、何度も書き直され、自殺の直前まで書き直されている。いまだに完成していないと筆者は考える。文字通り、終わりがない。始まりもない小説である。これは、ポストモダンの詩と考えて良いだろう。
 
そもそも、「国境のトンネルを抜けると」で始まる最初の場面は、主人公にとっては2回目の越後湯沢である。1回目は後から語られる。無限に増殖し、変化する物語は、マルチバース的である。川端康成がポストモダンの先に見ていたのは、時間が直線的ではない多世界解釈と、どこを切り取っても、完結していて、いつまでも終わらないフラクタルでネバーエンディングな物語 量子的で思弁的な実在である
時制や構造をもたない、意識と無意識、現実と非現実、過去と未来が溶け合った世界は、男と女、親と子、人間と非人間、神秘主義とエロティシズムの区別もない輪廻転生の世界、それは仏教的世界観である。
戦争と差別のない世界を目指すのであれば仏教しかないことを川端康成は知っていた。それは美術品の美しさと人間の美しさに区別がなく性別や年齢にも区別のない絶対的美の世界と通じている。アジア文学における本当の勝者は川端だった。モダニズムを完全に自分のものにし、ポストモダンの先を見つめていた。今やっと時代が川端康成に追いついた感がある。
1925年に横光利一と始めた同人誌 『文藝時代』は、彼が新感覚派と呼ばれるきっかけとなったが、未来派、ダダイズム、ドイツ表現主義の影響から、前衛的な作風を色々試した。その後のシュルリアリズムも新心理主義も彼は色々学び取り入れた。彼のスタイルは、古典的なようで、実は前衛の組み合わせによる川端康成独自のものなのだ。父の31歳と母の37歳の間で自分も死ぬだろうと思っていたから、31歳以降生活と文学でダッシュした。「浅草紅団」(1929)や「水晶幻想」(1931)など戦前の作品は今読んでも実に瑞々しい。川端康成は大正モダンの影響で、多くの前衛的な文学を吸収した。「伊豆の踊り子」は彼の私小説であり、現実逃避の青年の話ではあるが、彼の中にある少年愛/ロリータコンプレックスが開放された喜びが表現の幅を広げた。彼は自立した理想の美学を構築することができた。そして、文芸が日本を救うと本当に信じていた。33歳で「禽獣」を『改造』に発表、虚無的傾向が深まる。35年から37年まで『雪国』の断片を様々な雑誌に発表し、彼の仕事は一度完結する。37歳までにいつ死んでもいいような作品の書き方を完成させた。短編の集積が 長編になるような書き方だ。こうしていったん『雪国』の外枠が出来上がった。そして日中戦争が始まった。戦争中は、傍観した。戦後は、スタイルを洗練させること、自分の作品を世界に評価させることのために主に活動した。日本文学の頂点に立ち、アジアの頂点に立ち、それを不動のものとすることが彼の野心だった。彼の文学における主要なテーマは、純粋な魂への憧れといずれ来る失望、ともに暮らしながらも騙し合い裏切りあう寂しい男と女、超能力と呪術、抑圧の結果としての狂気などである。死が身近にあり、そこに隣り合わせて儚い美が生まれる。
 

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