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磯﨑寛也の作り方(満州幻妄)

私の祖父は満州陸軍少将でした。敗戦後の帰路の満鉄でソ連に捕まり、シベリアに抑留されました。途中軍の命令で残酷な殺戮をしました。その時に一度彼は死んだと思います。洗脳され5年後コミュニストになり日本へ戻りました。

私の母はハルビンの生まれです。父の残忍さを体感し帰ってきた父を、本当の父とは思っていませんでした。帝国主義者が、数年で共産主義者になるものでしょうか。母は、それを、許した祖母を生涯恨みました。
「人の一生は苦しみの連続なの。日々死力を尽くさないと人はダメになる」
早くに結婚した母は子供達にもそれを求めました。
「お兄ちゃん95点では負けなの 100点が当たり前なんだから」
と言って泣きながら子供たちを折檻をしたのです。
「お母さんは好きで叩いているのではない。叩かなくてはいけないの。この世は地獄だから」
折檻はいつも2階に登る階段の下で行われました。小さな扉があって、その壁に手をつかされ、あるいは四つん這いになり、彼女の体力が続く限り尻を、たたきました。私は泣きじゃくり、横隔膜が痙攣し、息が止まりそうになると、自分に言い聞かせました。
「尻を叩かれても人は死なない。泣いて死ぬ人はいない」
そこは、父の弟が暗室として使ってました。一度暗室の中に彼がいたことがありました。子供を体張って折檻する女と悲鳴をあげ泣き叫ぶ子供。彼はどう思ったでしょう。そこは、確かに戦場でした。
 
日大を出て戻ってきた叔父は、しばらくだらしなく家にいました。祖父の紹介で地方銀行が内定していたのに。入社の試験に遅刻して、セメント会社に滑り込みました。祖父の反対を押し切って。駆け落ちして、水商売の女と結婚し、若い奥さんは自殺したと聞きました。父には、女兄弟が2人、男兄弟が3人で、このおじさんは三男です。次男も祖父の反対を押し切って、結婚し、その妻は過労死しました。
「ほらご覧。この家は呪われている。三男、二男、そして長男の妻の私が死ぬ。私もいずれ殺される」
そう、話し加えてこんなことを言いました。
「寛也 親の反対を押し切って結婚したらその嫁は必ず死ぬからね」
僕は、結婚が恐ろしくなりました。その後成人してから、僕は付き合う女を、結婚する予定だと、ほぼ全員紹介しました。付き合っている女が死ぬのは嫌ですから。しかし、そういう意味ではこの時点で洗脳は成功していました。しかし、私は、どうすれば、親の息のかかっていない女と、結婚できるのか考え続けました、その結果が、今なら妻でした。5人目です。ラッキーなことに京都でした。しかも同志社なので、彼らよりはいい大学です。最後まで何処の馬の骨と言われましたが、押し通すことができました。今も妻は生きています。しかし、妻の両親は、そのすぐ死にました。義父は、結婚の1年後、義母は2年後、そういう意味では、磯﨑の呪いを彼女の両親が身をもって守ったのでしょう。世の中は恐ろしいことがあります。 
折檻の時、息子は母親を憎らしい目で見ました。
「ほらその目が磯崎の目だ。私はお前を殺して自分も死ぬしかない。お前は生きる資格のない愛ダメな人間だ」と言われました。彼女には明確な殺意がありました。そして、僕もいずれ。2人を殺そうと考えていました。殺意を持った母親と一緒に暮らした息子は、学校で暴れます。毎日のように、ターゲットを体育館裏に呼び出し、決闘と称した殴り合いをしました。僕の幼少期は、日々が戦争でした。

母の一族は農地改革で土地を奪われ、極貧の中で、祖母は水戸三高の教師をしながら、短歌を書き続けと聞きます。2冊の歌集を出しました。『うたかた』『夕凪』今この2冊と私の詩集たちは、今は水戸一高の図書館で並んで置いてあります。その中に満鉄の鉄道脇に自分で穴を掘って埋めた乳飲児の死体とともに自分の歌を埋めた歌が、内容は忘れてしまったが、歌は忘れたが、慟哭が、あまりひどく声にならなかったようです。自分の子供を殺した夫とそれを命令した政府を、果たして人は許せるものでしょうか。

読者の皆様、これが私の文学の原点になりました。子殺しと、親殺しです。現実に起こったのは、子殺しのほうですが、私の父と母は、親への憎しみで結びついていて、時間をかけて殺していきました。体が弱ってから徹底的に精神のダメージを与えたのです。そんな家で幼い私は、怯えるしかありませんでした?そして学校で毎日喧嘩をする多動症の問題児でした。成績は、常に学校で一番でした。東京の塾に3時間かけて通っていました。四谷大塚進学教室です。その中野クラスにいました。先生はこう言いました。
「ここにいる7割は東京大学に行くだろう。大蔵省の官僚や、弁護士や医者になるだろう」と。私は中学3年生まで、東大に行くのは当たり前と考えていました。

私は戦死者も生き残った人も、戦場の地獄は同じと考えています。戦争に関わった人は、すべて、地獄にいるのです。つまり、死んでいるのです。そして、文学は死者と生き残った人双方の、鎮魂の作法です。生きるためにはそれしかない。私にとっての小説/詩/歌は、すなわち生者と死者の鎮魂の2つになりました。生き残った者は、死んだ者に許しをこわなければなりません。そして、彼らの冥福を祈らなくてはなりません。生涯をかけて。

全ては繋がっています。

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ラストエンペラー


「ラストエンペラー」は、日本にとっても最も重要な戦争の映画です。自分にとってかなり重要な映画でした。大学2回生で見て初めて、ある程度祖父を理解しました。戦争というものを体感できたのは、
あの映画と「地獄の黙示録」「フルメタルジャケ」「アメリカンスナイパー」「ラストエンペラー」「プラトーン」この5本です。あとは、エンタメだと考えてます。見終わった後、その足で、母の実家に泊まりに行きましだ。仏壇で祖父と話しました。

ジョンローン(溥儀)と坂本龍一(甘粕大尉)の配役が組み合わせが見事でした。ビーターオトウール(イギリス)は紳士でした。それは、おかしいと思いました。香港はイギリスの支配下だし、アヘン戦争は、イギリスがやったのに。日本はイギリスにそそのかされて、日清、日露戦争をイギリスの代理として戦争をしたのですから。また、少し満州が美化されているのが気に入らなかった。ペルトリッチは枢軸国の監督ですからね。今は、ああした映画を撮れる監督はいません。坂本龍一の起用のきっかけは大島渚の「戦場のメリークリスマス」坂本龍一に来たオファーは音楽だけでした。本人が役者を条件に出したのです。正当なアカデミアですからね。撮影中、お前にヴェルディはわかるまい、と馬鹿にされ続けたのが坂本のトラウマになりました。しかし、坂本を世界に押し出したのもあの映画の力です。

ベルトリッチは、ファシズムの美学を描けた最後の監督でした。(そんなものがあるなら)暗殺の森、暗殺のオペラ、ベルトリッチは全部早稲田で見ました。ゴダールとベルトリッチが同時上映、そこで気狂いピエロも初めて見たのです。余計な話ですが、フランスとイタリアの対比が強烈な映画体験でした。坂本龍一はもともと社会主義者だけど、ファシズム的傾向の強い音楽家でした。思想と趣向は分裂してましたね。ファシスト党とコミンテルンの間で揺れてたんです。


溥儀扮するジョンローン
甘粕扮する坂本龍一

私の今所属している使者、日本未来派はもともとアナキストの集まりでした。結局、極右と極左は同じなんですよ。暴力で力をむしり取るという観点で。アメリカも民主主義の仮面を被った帝国主義ですから、同様です。僕は詩を書き始めました。大学時代のイエロー・マジック・オーケストラの影響は思想的、美学的にかなり大きいです。第三詩集『ピルグリム』』は、本当は『いえろー・まじっく』という詩集のはずでしたが詩壇に去勢されました。こんなのでは、賞は取れないからと。いえろー・まじっくはダメでピルグリム(巡礼)は良いという感性がわかりません。そういえばYMOmoの散開コンサートは、ファシズムの除霊です。覚えてますか?彼らの人気は凄まじく、なんでもできるような立ち位置にいた。個人な時間はほとんどなかった。ファシズム的な不安を感じていた。それは、美しくもあった。だから、日本のために、それを破壊したのです。そこには、坂本龍一の明快な意図がありました。バンドは、長くても7年だと思ってます。最初の2年は下積み、スタイルの確立、4年で頂点を迎え1年は解散準備。ビートルズがそうでした。

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話を元に戻します。ソ連のシベリア抑留からもどった祖父は、ソ連の指示で、茨城交通の組合のトップになり、弟を専務にしました。茨城交通は、見事壊れました。彼は、ひたちなかの市議会議員をやりました。毎日、夜の街で敵対する右寄り議員を殴り倒していました。家でも暴力的でした、毎日の暴力に家族は常に怯えていた。いつ戦争が来てもいいように、広い庭には自給自足ができる準備がありました。高い壁、門から家までの長い道、井戸、栗林、ミツバチ、椎茸、全部自前で用意できるように。お風呂はずっと薪で沸かしてました。街の乱暴者を世話して私設軍隊を組織していました。これが満州植民地の自衛のスタイルです。剣道を嗜み、川で、赤褌で泳ぎの訓練をしていました。彼は、自宅の余った土地に長屋をつくり、そこを支配していました。そこの住民を下等市民として完全に差別をしていました。
「貸家の子とは遊んではダメ」
「どうして」
「馬鹿だし。汚いからよ。触ると病気になる」
高い壁があり、そこから侵入する者は、猛犬に噛まれました。シェパードが3匹放し飼いになってました。
庭には築山と大きな池があり、僕らはそこでら遊びました。彼は、朝から酒を飲んでいました。昼寝をすると「天皇陛下万歳」と叫んでました。
今となれば、私たちの苦痛に満ちた昭和は全ては戦争が原因だと考えています。私と両親を、憎ませ、引き離したのも戦争だと、そう思っています。私は、一時期それを修復する努力をしました。無駄な努力でした。彼らは心の何かを捨ててしまっていたのです。ホワイトドッグが死ぬまで殺人犬だったように。私は2022年にこの呪われた家を捨てました。親を愛せない2人は、私を引き止めませんでした。私に憎しみをずっと持っていました。文学部に行き、新しい会社を作ったからです。しかも、自分たちが愛されるはずがないとわかっていた。せいせいしたのでしょう。私は家に居場所のない子供でした。ずいぶん傷ついたけど、今はもう大丈夫です。どうしようもないものは、受け入れるのではなく、切り離すのです。それを学びました。今私は心の平和があります。
戦争は続いていだのです。

別な戦争もありました。父方の高祖父は、水戸藩、弘道館の攘夷派です。尊王派の天狗党に切り殺されました。明治政府の判断で、水戸藩の幕府擁護派の磯崎家は平民になり、後に士族に返り咲きました。曽祖父は、師範学校を卒業し、銀行家と結婚しましたが、台湾総督府ではたらくため、妻と子供を置いて、台湾にいきました。結核になり、日本に戻り画家になって死にました。磯崎家は、曽祖父の結核の治療で大きな借金を背負いました。曽祖母の藤崎家は、銀行家でしたが、関東大震災の時、銀行に強盗に入られ、全てを失いました。高祖父は美男だったので、台湾から女が追いかけてきました。37歳で死にました。祖父は婿養子です。工業高校から、東芝(当時の芝浦、GEの資本下にありました)に入り、大ストライキを起こし、地元に戻りました。磯崎は士族だったので、農家(庄屋)の三男の三郎は、身分を上げるチャンスだと思い、結婚しました。あったのは莫大な借金です。かえすには、稼がなきゃならない。それで作られたのが茨城電機です。肛門をナイフで切って、丙種合格で前線にに行くことを許された祖父は、工兵になり、日立製作所で武器を作っていました。戦後、破壊された電気インフラの修理の仕事がいくらでもあり、電機で1財産作りました。県の所得番付で一番になったこともあります。こうして磯﨑は裕福になりましたが、祖父の成功の仕方はイレギュラーで強烈だったので、子供達は皆、怠惰な不良になりました。父はまともに育ちましたが、強く祖父を憎みました。


祖父のストライキ時代
曽祖父の師範学校 卒業記念後ろは水戸城


 
子供のころ、祖父と私たちは同居していました。母は別居を条件に結婚したのに、騙されたといつも磯崎家の悪口を話しました。祖母との確執はひどく。お互いに人間として認めていませんでした。

祖父は僕を特別扱いしました。嫡子相続だからです。祖父と仲のいい私を父は憎みました。父は生まれな時から士族ですから、よくクソ平民と祖父を馬鹿にしました。祖父は父を「事業の勘のないやつ」とけなしました。

このように僕は歪み合う、ファミリーの中で育ちました。自然にあらゆるものへの破壊衝動と殺意が生まれ育ちました。救いは、父方の祖父と母方の祖母の2人でした。この2人だけは無条件に僕を愛してくれた。それは確信しています。それがら僕が文学をやり、事業をやり、自殺をしなかった理由です。会社を閉める時は、祖父の墓参りに行きました。
 
「おじいさん 会社の生命線は断たれた 東芝と組む直前に 東芝もこけた 父は助ける気はない 僕が僕の手でしめる いいね」そう話しかけました

「銀行の言いなりにはなるなよ 好きにしたらいい 悪かったな ひろや」
 
そういう声が聞こえてきました。僕は、何をすればいいか、理解しました。会社は事業停止し、裸一貫になり、3年で詩人になる。その目標を達成しました。あと3年で年金がもらえる。最低限の生活をし、詩を書いて生きる。画家も考えましたが、キャンパスや絵の具は結構お金がかかります。詩は原稿用紙と鉛筆。あるいはスマホと右手人差し指だけ。世界で最もローコストな仕事です。小説は、お金のために書くことにしました。
 
こうして、詩人磯崎寛也が作られたのです。詩人磯﨑寛也は、戦争と親を憎んでいます。自分の中の暴力と資本主義を憎んでいます。権力や権威を憎んでいます。大義のためならいつでも死ぬつもりです。命懸けで詩を書きます。3年で、詩を発表する場所をそれなりに見つけました。

まず 詩集、これはお金がかかります。3冊出しました。次に同人誌。こらはお金は大したことはありません。西から、万河、火片、VOY、回游、日本未来派、山脈、それぞれ2回、詩2本で6冊 24本の詩が書けます。24本で一冊単行本が出せます。いつでも本を出す用意があるということです。
そしてnoteとTwitter(X)で600人ずつの詩の読者をつくりました。お金にはならないけど、読者が1200人、一つの高校の生徒が全員僕の詩を読むような気分です。悪くない。
もちろんもっともっと上を目指す。向上心はあります。
とりあえず、現状では。自分の人生に悔いはない。
読者もいる。祖母から受け継いだ文才もある。祖父から受けついだ商才もある?15年 75歳で人生をクローズするつもりで、詩人だけに集中して生きていきます。Xと、noteは、アプリとして残るでしょう。書かれたものは記録になります。残された文字、本と電子メディアは、歴史です。
緊張感を持って臨みます。


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