【川端康成論】ノーベル賞を巡って三島由紀夫と
川端康成の創作の歴史を考えると、日中戦争の始まる1937年までと戦後ペンクラブの会長を勤めノーベル賞を受賞するまでの1948年から68年の20年の二期に分かれる。
戦前の川端は、青年のロマンティックな思いを軸に、
モダニズムの手法を自分の作品に反映させるため、さまざまな実験をした。
特に父親の死んだ31歳、母親の死んだ37歳の間に死ぬだろうと不安を感じていた川端は、31歳で女性関係に結果を出し、37歳で彼のライフワーク「雪国」にけじめをつける。
『浅草紅団』(1930年)
『水晶幻想』(1931年)
『抒情歌』(1932年)
『禽獣』(1933年)
『雪国』(1935年 )
戦後は、確立した文体を、ヨーロッパの文学者に認めさせるため、社交や社会的活動をはじめ、相当な無理をしながら山頂(ノーベル賞)を目指す。
よく三島に川端がノーベル賞への推薦を頼んだと言われているが、それは1961年のことであって、授賞するのは68年であるから、直接的にはあまり関係ないと思われる。愛する三島との敵対関係を避けるために川端が提案した。もし、三島が断ったら、ノーベル賞を諦めたのではないか。
川端は戦後ペンクラブの会長を17年も勤め、ノーベル賞をもらう10年前に世界大会を誘致している。戦勝国が、植民地主義への反省と、敗戦国の文化を守ろうとする動きがあるのは当然知っていた。とはゆえ アンドレ・マルロー サミュエル・.ベケットに勝ち抜いた力は想像を絶する。川端はポストモダンや魔術的リアリズムを理解し、それをすでに超えていた。
三島は、自分の方が評価が高いと思っていたと思う。ノーベル賞は政治的である。特定の国の誰かとなった時、よく知った人を選ぶのは当たり前のこと。川端は、ペンクラブ世界大会に結果を出し、その後世界から様々な招待を受け、活動した結果としての受賞である。25年以上の時間をかけている。三島が取れるはその25年後、69歳、三島には待てる時間ではなかった(大江健三郎1994年)
2人は、偶然の一致だが、25年間の交際期間があり、25年間文通を続けた。三島が同性愛者であることはよく知られているが、川端も、少年愛を告白しているようにバイセクシュアルであるから、2人が恋愛関係にあったと考えるのが、自然である。
三島は、川端に名誉を譲り、革命を選ぶ。川端は三島が死んだら自分も死ぬと約束する。結果として68年のノーベル賞、70年の三島の自殺、72年の川端の自殺と続くわけだが、70年は少し遅れ、72年は早まった。(証拠に72年に養子にしようとまでしていた、秘書に11月までいてくれないかと頼んでいる。その女性との密約が謎の死につながっている)
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川端康成は幼い頃、ある種の超能力を、持っていたと言われる。いわゆる神童である。見えないものが見えたり、予言したり、彼の作品の中に時々登場するそうした能力は、自分自身の経験によるものだ。
川端の大学の専門は英文学であるから、当時の時代の変化に敏感だったはずで、若い頃の作品には、モダニズムの影響が散見する。しかし、東洋の古典も、よく知っていたはずの川端は、西洋のモダニズムがアジアの模倣であることもわかっていたし、いずれくるポストモダン、その後の文藝(まだ、名前はついていないが)がどのようなものになるのかを予知していた。
例えば『雪国』37年に一度完結している、しかし、何度も書き直され、自殺の直前まで書き直されている。いまだに完成していないと筆者は考える。
文字通り、終わりがない。始まりもない。そもそも、「国境のトンネルを抜けると」で始まる最初の場面は、主人公にとっては2回目の越後湯沢である。1回目は後から語られる。無限に増殖し、変化する物語は、マルチバース的である。
川端康成がポストモダンの先に見ていたのは、時間が直線的ではない多世界解釈と、どこを切り取っても、完結していて、いつまでも終わらないフラクタルでネバーエンディングな物語 量子的で思弁的な実在である。
時制や構造をもたない、意識と無意識、現実と非現実、過去と未来が溶け合った世界は、男と女、親と子、人間と非人間、神秘主義とエロティシズムの区別もない輪廻転生の世界、それは仏教的世界観である。
戦争と差別のない世界を目指すのであれば仏教しかないことを川端康成は知っていた。それは美術品の美しさと人間の美しさに区別がなく性別や年齢にも区別のない絶対的美の世界と通じている。
戦後20年間は、三島の時代だった。ルックスとインパクトは誰も敵わない。しかし、ある種の帝国主義、国家と英雄の時代は完全に終わった。身体では解決しない問題に思想と精神世界で答えを出す。アジア文学における本当の勝者は川端だった。モダニズムを完全に自分のものにし、ポストモダンの先を見つめていた。今やっと時代が川端康成に追いついた感がある。
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物心がついた時、川端康成の両親はすでにこの世にいなかった。31歳と37歳で亡くなっている。体が弱く引っ込み思案の少年は祖父母に育てられ祖母に溺愛されるが、祖母も早くに亡くなり、祖父と2人で生活することを余儀なくされる。
彼の女性観は、手に入れることが不可能なイメージとして幼少期に固まった。孤独を乗り越えるため、人との関係を抑制し、孤独な欲望を美学として成立させるために表現として小説を選んだ。彼は生前自分のことを「怠け者」と話していたが、それは彼の若くして死ぬかもしれないという恐怖の現れであり、じっさい相当疲れやすかったのだろう。危ない橋をわたりたくてもできなかったことは不幸中の幸いである。
川端康成は西洋のモダニズムから多くを学んだが、「伊豆踊り子」のような半ば私小説的で素朴な物語が、世に喜ばれることは知っていたので、実験的なものを書いては、中途半端に書き散らかして、ヒット作を時々書いて出版社を喜ばせ、その勢いで恐れず前に進んだ。
1925年に横光利一と始めた同人誌 『文藝時代』は、彼が新感覚派と呼ばれるきっかけとなったが、未来派、ダダイズム、ドイツ表現主義の影響から、前衛的な作風を色々試した。その後のシュルリアリズムも新心理主義も彼は色々学び取り入れた。彼のスタイルは、古典的なようで、実は前衛の組み合わせによる川端康成独自のものなのだ。
父の31歳と母の37歳の間で自分も死ぬだろうと思っていたから、震災後、生活と文学でダッシュした。自分が日本で最も優れた文学者になるという確信があったのだろう。31歳で浅草の踊子のスポンサーになり、画家の愛人もでき、正式に結婚もした。一気に進めた。梶井基次郎の33歳の死は、彼の行動をさらに加速させる。1933年に『伊豆の踊子』が映画化、「禽獣」を『改造』に発表、虚無的傾向が深まる。35年から37年まで『雪国』の断片を様々な雑誌に発表し、彼の仕事は一度完結する。
そして日中戦争が始まった。戦争中は、傍観した。戦後は、スタイルを洗練させること、自分の作品を世界に評価させることのために主に活動した。日本文学の頂点に立ち、アジアの頂点に立ち、それを不動のものとすることが彼の野心だった
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彼の文学における主要なテーマは、純粋な魂への憧れといずれ来る失望、ともに暮らしながらも騙し合い裏切りあう寂しい男と女、超能力と呪術、抑圧の結果としての狂気などである。死が身近にあり、そこに隣り合わせて儚い美が生まれる。
「浅草紅団」(1929)や「水晶幻想」(1931)など戦前の作品は今読んでも実に瑞々しい。川端康成は大正モダンの影響で、多くの前衛的な文学を吸収した。「伊豆の踊り子」は彼の私小説であり、現実逃避の青年の話ではあるが、彼の中にある少年愛/ロリータコンプレックスが開放された喜びが表現の幅を広げた。
彼は自立した理想の美学を構築することができた。そして、文芸が日本を救うと本当に信じていた。37歳までにいつ死んでもいいような作品の書き方を完成させた。短編の集積が 長編になるような書き方だ。
こうしていったん『雪国』の外枠が出来上がった。
川端は、自分の表現がモダニズムのかなり先を行っていることを知っていた。翻訳した時にどうなるかも、よく考えて書いている。シュルリアリズムと仏教の相性がいいのもわかっていた。自分が描いているものが、物語の仮面をかぶった詩であることもわかっていた。
物語が破綻しても平気なのは川端の資質が詩人だからだ。イギリス文学において詩の優位性は当然知っていたし、日本文学における、漱石、芥川の正当な流れは、小説による詩であり そこに純文学の名前をつけ擁護した。
37歳で ポストモダンを海外より10年先回りしていた。だから、ベケットより早く、受賞したのだ。ヨーロッパで高く評価されるモチーフもよく理解していた。ペットへの偏愛を描いた「禽獣」、心霊的な幻想の「叙情歌」、ロリータコンプレックスの「眠れる美女」ストーカ
ーを主役にした「みづうみ」強烈なフェティシズムとインモラルは、欧米の貴族的なインテリを強く惹きつける。
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25年間文通を続けた愛する三島はついに1960年代にライバルになった。川端も三島もノーベル賞をねらっていた。川端は戦後すぐ、ペンクラブの会長をつとめていたから、誰より早く情報を入手できる。ペンクラブの本拠地はロンドンにあり、ノーベル賞に推薦できることを知らないはずがない。谷崎、西脇とは互角、三島は頭ひとつぬけていた。1957年のペンクラブの世界大会開催と翌年の国際ペンクラブ副会長就任は、日本の文学を世界に知らしめた一番大きいイベントだった。
それから川端は、ゲーテメダルを受賞し、
「ねむれる美女」を完成させ、アメリカ、ブラジルへ出かけ、フランスから勲章をもらい京都に住み「古都」を完成させた。
だから、自分がかなりの確率で賞をとれることはわかっていた。緻密に動いてきた。三島は、国内にとどまった。三島に推薦文を書かせたのは、川端がとるまで、三島が動けないようにするためだろう。三島は政治的な理由で割腹自殺をした。ノーベル賞をとっていたら、躊躇したろう。だから、三島にとっても、ノーベル賞をとらないことではじめて可能になる行動だった。
また、1968年には五月革命がおこり、世界が大きく変化した。過去評価は全否定される。モダニズムも、エロティシズムも新しくなる。川端と三島は、愛し合いながら、お互いの才能を嫉妬しあっていた。だから、川端の自殺は心中のようなものに思える。2人の間に約束があったという設定でいつか小説を書いてみたい。
川端は少年を愛し、少女を愛した。無垢なもの、物言わぬ、生命の輝きをめでた。三島も同じであるが、よりフィジカルであった。肌の煌めきより筋肉の起伏の力強さを愛した。三島は川端をある時期から否定するようになった。嫉妬かもしれない。文体を持たないと言われても それを川端は許した。
構成の乱雑さが一種の鬼気を生む
重複と抒述を前後させる
老人の恋は青年対処女のバリエーション
川端さんがついに文体を持たぬ
中世文学の虚無主義、終末感、
暗いエロティシズム
すべての人間関係が〈ゆきずり〉
それに対して川端はあくまで謙虚である。日本人を、よく理解していたからだろう。
このやうなひきのばしではなく、
初めから長編の骨格と主題を備へた
小説を、私はやがて書けると
なぐさめてゐる
ほんたうに書きたい作品が一つも
出来ないで、間に合はせの作品
ばかり書き散らして、
と話している。
戦争による断絶は時代の宿命である。川端の歴史=日本の近現代の文学史そのものである。なにしろ「恋愛がすべて」と川端は言う。そしてその情熱は、異性だけでなく同性へも、美術品へも、芸術の才能や日本そのものにも向けられた。
孤独な詩人の魂を慰めるのはいつも無垢な少女だった。川端は、無知で不幸な女が好きだった。何かしてあげたいといつも思っていた。彼にとってのセクシュアリティは見ることと奉仕することだったのではないか。
最後は、眠ったまま起きない女を描いた。(「眠れる美女」)無垢な若い女に対する、川端の視線とエロティシズムは、多くの文学者や家父長の立場を奪われた戦後の男たちに共感されたと思う。
若い頃に身内を全て失った川端の不幸が、第二次世界大戦によって、普遍的な出来事になったのだ。もちろん自分の宿命について、彼が理解していたわけではないと思うが、いずれ自分の文学が必要とされると理解していた。
こうした川端の考えは、古くは西行、中世では鴨長明、世阿弥、利休近世では芭蕉、など独特な美学を国家の中心に置くために俗社会と権力との距離を間違わなかった先人を踏襲しており、そこには去り際、散り際の美しさが共通してある。
新感覚派は、大正後期から昭和初期にかけての日本文学の一つの流派1924年(大正13年)10月に創刊された同人誌『文藝時代』を母胎として登場した新進作家のグループであるが、川端康成は、実はそこにずっと止まった作家であり、永遠の新感覚を完成させた。それは川端の作り出した芸術であり、ポストモダンが終わった今もまだ新しい。
特に私は
『水晶幻想』に注目する。この
「意識の流れ」の延長・発展・洗練されたものが『みづうみ』『山の音』である。
それは量子的といってもいい。つまり観察者によって、見え方が変わる。過去の作品と未来の作品が知らず知らずに蘇る。魔術が日常化した世界。
三島は西洋芸術の均衡の取れた合理性にこだわった点で すでに古臭かったと言える 日本人にはわからなくても 欧米の批評家には 川端の先端性がわかっていた。
「どんな弱点でも持ち続ければ、その人の安心立命に役立つやうになるものだ」川端は生前そう話していた。持ち続けるには技術がいる。思想も必要だ。
私は、川端がその新小説によって実現した、量子的リアリズムを、現代詩に応用することにした。
それをこれから「シン感覚派」と呼ぶことにする。
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