桶狭間の戦いの考察9
今川義元が桶狭間の戦いで何故破れたのかを考察する記事、第9回目。
今回から今川氏と織田氏による三河争奪戦を。
■松平広忠、岡崎城に帰還
松平清康亡き後、叔父松平信定によって岡崎城から放逐された松平竹千代は、吉良持広に庇護を求めて、その持広の仲介により義元と対面します。
吉良氏は足利一門の名家でしたが、室町幕府初期の観応の攪乱において、西条吉良氏と東条吉良氏に分裂して事あるごとに紛争を続けて弱体化しました。
この頃は西条吉良氏は織田氏の、東条吉良氏は今川氏の庇護を受けている状況で、持広はこの東条吉良氏と呼ばれる系統の人です。
竹千代はこの時、持広より偏諱を受けて松平広忠と名乗りを改めています。
先の守山崩れで松平清康が暗殺された後、三河は織田信秀の妹婿である松平信定がその後ろ楯を頼りに三河支配を広げようとしていました。
実はこの時期は今川義元にとっては、北条に駿河海東郡をとられ、遠江も国人の反乱があったりと、非常に厳しい時期でもありました。
東西に敵を抱えて国内情勢も乱れている。そんな折りに、部下に殺されたとはいえ未だカリスマ的な人気のある清康嫡子の来訪。
今川方としては願ってもない「奇貨」が転がり込んできたのです。
ここて広忠に恩を売り三河に戻すことができたら、松平家は今川方の勢力として活かすことができる。
また、三河でも信定の専横を清康の旧家臣が疎ましく思っていたこともあり、広忠が隣国今川家の後ろ楯を得らて岡崎城に帰還できたら、安祥松平家の再興が可能になります。
最も、松平氏にとっても、今川の助力を得るということは、その勢力下に入ることを意味しますので、代わりに独立勢力では無くなることになります。(これが後に禍根の元になります。)
利害が一致したことで、広忠は今川勢の助力を得て幡豆郡の室城に入城。信定側もこれを察知して城を攻めますが、三河勢は信定派と広忠派に分かれており、軍の統制がとれずに敗北。
この敗戦が決定打となり、広忠派が一気に台頭して、広忠が岡崎城に帰還することになります。
しかし、広忠は降伏した信定を許してしまういます。確かに清康暗殺は信定が手を下したわけではなく、また清康を殺した阿部正豊の父定吉も許されているんですよね。(定吉は吉良氏、今川氏への取次もしていますから、広忠のかなり側近くに仕えています)
父清康が身内に厳しかったことから命を落としたため、寛大な処分となったのかもしれませんが。
この曖昧な態度が、後々大きな禍根を生んでしまうことになります。