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チューニング能力

教職経験も長くなってきました。その間、若い教師をたくさん見てきました。その結果、一つだけこれだけは言えるな……ということがあります。それは「遊べない教師はだめだな…」ということです。「遊ぶときにはとことん遊べる教師が良い教師になるな…」と言ったほうが良いかもしれません。

〈遊べる〉ということは、実は物事の楽しみ方を知っているいうことです。どんなメンバーとも、どんな場所でも、おもしろさを発見してそれを心から楽しむことができる、ということです。どうでしょう。この資質が教室でどう活かされるか、考えるまでもなく理解できるはずです。〈遊べる〉ということは実はそういう資質のことなのです。

子どもの本質は〈遊び〉にあります。昔から「よく学び、よく遊べ」と学校の至るところに貼ってあるのを見ましたが、子どもというものは〈遊び〉のなかに人間関係の機微を学び、〈遊び〉のなかで自分と社会、自分と世界との関係性を学びます。よく遊ぶ子ほど自分を高めて行ける……それが子どもの世界です。言うまでもないことですが、子どもはおもしろいことが大好きです。世界にはおもしろいものがたくさんある、よく遊ぶ子どもは無意識のうちに毎日それを実感しながら生きていきます。

こういう子どもたちと毎日接しているというのに、担任教師が日常生活のなかに楽しみを見出せないタイプの人では、子どもたちがかわいそうです。やはり一緒にゲラゲラ笑ってくれる先生、子どもたちが陰に隠れてやるいたずらを叱りながらもそのおもしろさには共感してくれる先生、必要なときにはボケてくれ必要なときにはツッコミを入れてくれる先生、そういう先生こそがやはり子どもたちを育てていくのだろうと思います。

こうした教師が子どもたちを育てるのは、決して授業力が高いとか指導力があるとかいったこととは別の能力なのだと思います。つまり、スキルではない、ということです。私はこれを〈共鳴力〉と呼んで、教師力の大きな要素の一つだと捉えています。教師が〈遊べる〉ということは、実は他者への〈共鳴力〉が高いことを意味しています。

〈遊べる〉ということは、実は〈チューニング能力〉が高いということです。一緒に遊んでいるそのメンバーを楽しめない、その場を楽しめないということは、実はそのメンバーや場所にチューニングを合わせられないことを意味しています。その場がAMの場なのに自分のFMの世界に閉じ籠もっている。そんなイメージですね。

学級崩壊を起こす教師、子どもに反発される教師を見ていると、このことが実感されます。子どもの発している電波とは異なった電波で受信しようとしている。子どもの電波とは合致しない、自分自身のたった一つの電波しかもっていない、そういう教師が子どもたちとのコミュニケーションを断絶させてしまいます。

子どもたちがバスケットボールを投げてきているのに、教師の側は卓球のラケットで打ち返そうとしているようなものです。教師には「いまはバスケットなのだ」「いまはバレーボールなのだ」「いまはカーリングなのだ」と即座にチューニングを合わせられる、そんな〈共鳴力〉がなによりも必要なのではないでしょうか。

ああ、いまこの子は私をかわしてレイアップシュートを打とうとしているなとか、あっ、こいついま自分にいいトスを上げてきたなとか、おおっ、ここはいいコースに決まりそうだ、ブラシで掃いてあげなくちゃとか、子どもと接するときというのはこうした判断の連続です。学級崩壊を頻繁に起こす教師、子どもたちとのコミュニケーションが下手な教師というのは、実はこれができないのです。

これを教室のなかで、つまり子どもたちのやりとりのなかで鍛えようとするのはかなり難しいことです。教室のなかには利害関係がありますし、教師にはどうしても子どもたちに対する責任を負っているという意識が働きますから単純に楽しむやりとりにはならないわけですね。やはり、気の合わない人、知らない人とも遊んでみる、そこに楽しみを見つけてみるというのが近道であるように思います。

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