初志
私は正直なところ、人生においてただの一度も「初志貫徹」したことがないような気がしています。心ならずも初志を貫徹できなかったのではなく、「初志」というものを抱いた記憶がないのです。
私の人生には基本的に計画性というものがありません。人生の岐路に立ったことは幾度かありますが、そのときそのときに一番良いかなと考えた道を進んできただけというのが実感です。未来にこうやってああやってという計画がない以上、何かを始めるときに「志」をもつこともありません。私はいまだに、来年のことはわからないなあ、来年の今頃はもっと成長していたら良いなあ、いま見えていないものが見える自分になっていたら良いなあ、そんな感覚だけで生きています。
そもそも人間は、計画を立ててしまうと計画通りに生きたくなってしまいます。目標を持って一歩一歩努力していく、目的をもって一つ一つ進めていく、ともに一般的に美徳だと思われていますが、私はまったくそう思いません。自分の立てた計画にこだわって、何かトラブルが起こったときに対処できなかったり、何かチャンスが巡ってきたときにつかみ損ねたりすることが多い。私にとって、計画性とはそうしたネガティヴなものです。
わざわざ自分で計画など立てなくても、1年を通じて学級経営でやらなければならないことは決まっていますし、授業で扱わなければならない教材も決まっています。学校というところは1日の時程が完全に決まっています。その通りに動いていれば、職員会議で決まった計画的な日々が送れます。
私は教師の仕事における計画性など、その程度で良いと思っています。自分が立てた計画に囚われて、その通りに物事が進まないことにイライラしてストレスを溜める。そんなことになるくらいなら、学校の計画に流されていた方がずっと楽です。
むしろ私は自分で計画を立て、自分自身を律しながら生きていくことよりも、自分の勤務校がより良い計画を立てて、私自身をより成長させてくれるような方向性で仕事をしています。つまり、自分の昼間の生活は学校の在り方に依存しているわけですから、その学校自体が私を高めてくれる環境になれば私自身が間違いなく高まる、こういう考え方ですね。ですから、会議では様々な改革案を提示しますし、会議で決めるようなことではないこと(慣習とか空気とかですね)については根回しや調整も積極的にします。
もちろん、自分だけが成長できれば良いというエゴイスティックな考え方で動いているわけではありません。だいたいそんな提案は職員会議で徹りようがありません。子どもたちが成長し、職員の負担を減らし、それでいてある程度の楽しさを保障できる、そういうシステムはないかといつも考えています。
考えながら行動し、行動しながら考えるタイプですから、「初志」などもてるはずはないし、「貫徹」とも無縁なのです。自分をできるだけフラットな状態にしておかないと、子どもたちの問題点にしても職員室の問題点にしても、「あれども見えず」の状態に陥りやすいですから。
これが私の日常的な意識です。
私に「初志」らしきものがあるとすれば、教員採用試験に合格したときに決めた「校畜にならない」ということくらいでしょうか。
私が教員になったのは1991年ですが、当時は戦後民主主義がつくった「会社に人生を捧げ、会社に人生を守ってもらう」という意味合いの「社畜」という言葉が流行していました。それと同時に、そうした生き方を批判的に見る雰囲気も蔓延していました。
この時代の機運を一身に浴びて育った私は、「札幌市の教育のため」とか「勤務校のため」とか「子どもたちのため」とか、そういう抽象的なものに自分の人生を取り込まれないようにするということを徹底しています。私の仕事の対象は目の前にいる名前をもった具体的な子どもたちと具体的な保護者たち、具体的な同僚たちであって、「札幌市の教育」や「○○中学校」や「一般的な子ども概念」のためではありません。ですから、目の前の子ども・同僚と「札幌市の教育」や「○○中学校」との間に利害の対立が生まれたときには、迷うことなく前者の利益を優先します。まあ、言うなれば、私は〈利益誘導型教員〉です(笑)。
もう一つは、基本的に時間外勤務をしないということです。朝早く学校に来てひと仕事するとか、夜遅くまで遺って仕事をするとか、そういう習慣は新卒時代から一切ありません。もちろん、生徒指導が入ったり保護者が来校したりということがあれば残りますし土日でも対応しますが、基本的に勤務時間外に事務仕事をするということが私にはありません。
勤務時間外に会議を設定しようとする人がいた場合には文句を言いますし、それでも改まらなければ出席しません。逆に、会議開始時間に遅れてくる人にも文句を言いますし、自分がセッティングしている会議であれば全員が集まらなくても時間通りに会議を始めてしまいます。職場にこういう人間が一人でもいると、会議は勤務時間内に行われるようになっていきます。そしてそれが当然の姿なのです。
私の本を読んで、読者は私のことをいろいろなことに精通し、ものすごく仕事をしている教師だというイメージで見ているようです。しかし、実際はそうではありません。私の提案の多くは、勤務時間にしか働かないために仕事を効率化するにはどうしたら良いかという発想で生まれたものです。特に事務仕事系の提案はこの傾向を強く持っています。私は長年、時間外勤務をしないために徹底的に効率化とスピードアップを図り、例えば評定なら3時間で出しますし、通知表所見なら40人分を2時間で書く技能を身につけました。職員会議の提案文書なら1枚につき15分、授業のワークシートなら1枚5分、定期テストの問題なら100点分を1時間かからずに作ります。
仕事術というものは時間の有限性を意識したときに初めて生まれるものです。夜遅くまで学校に残っている人たちの仕事振りを見ていると、私はその無駄の多さにイライラします。そういう人に限って、「志」や「計画」の名のもとに無駄なこだわりをもっているように思えてならないのです。