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成熟
「若手育成 10の鉄則・100の言葉がけ」(2016.02/小学館) あとがき
いま、松山千春の最新アルバム「伝えなけりゃ」を聴いています。松山千春59歳、39枚目のオリジナルアルバムです。この少々傲慢でエゴイスティックなイメージのある北海道出身のフォークシンガーを僕は愛して止みません。松山千春がデビューしたのは1977年1月ですから、僕は小学校4年生でした。彼はそれ以前から北海道のラジオでは既に有名人でしたので、その頃からの千春ファンは、彼の二十歳から還暦までをずーっと見てきたことになります。僕もレコード・CDで音源化されているものについてはすべて持っています。現時点で、僕は十歳から五十歳までの四十年にわたって、この十歳年長のフォークシンガーを追い続けてきたということになります。
いまとなっては、新党大地のテーマソングになってしまった感のある「大空と大地の中で」を初めて聴いたときの衝撃が忘れられません。小学校高学年というのは、周りの女の子たちがどんどん大人っぽくなっていく時期ですから、ちょうどその時期にリリースされた「時のいたずら」という曲にも思い入れがあります。
年齢を重ねると、こうした長年触れ続けてきた表現者というものを幾人ももつことになります。音楽だけでなく、文学や芝居を含めれば、僕の場合、数十人にもなるような気がします。彼ら彼女らが次第に成熟していくのを見ていると、どんな分野においても成熟の大枠は同じような経緯を辿るのかな……なんてことも感じます。特に松山千春の歌詞はその趣が大きいのです。五十歳を超えた頃から、彼の歌詞は言葉がどんどん少なくなり、行間に情緒を醸すようになりました。自分の意志をストレートに表現することの多かった歌詞が、運命的なものに、自分の意志ではどうしようもないものに対する畏敬のようなものを表現するようにもなってきました。「そんなにあせる事はない」「コツコツとやるだけさ」「私は風吹くままに揺れてる」「僕はそれなりに生きている」「時の流れはとても速くて生きて行くだけでギリギリだけど」などなど、成熟の意味を知る者だけが語れるシンプルな言葉を連ねるようになってきている、そんな印象を与えます。
先にも述べたように、松山千春は僕よりちょうど十歳年上です。僕が二十歳のときに彼は三十歳でしたし、僕が三十歳のときに彼は四十歳でした。僕が四十歳のときには五十歳でしたし、そして僕が五十歳を迎えようとしているいま、彼は還暦を迎えようとしています。そんな節目節目の年に、松山千春のアルバムがリリースされる度、僕は「ああ、次の十年はこんなふうな境地に至る十年なのかもな……」と感じたものです。そんな想いを抱きながら、いま、「伝えなけりゃ」という最新アルバムを聴いているわけです。
二十代、三十代の若者たちと接していると、「こいつが四十代、五十代を迎えたとき、どんなふうに成熟しているのだろう……」という想像力が僕のなかで起動します。彼らが学校の中枢として働くころ、僕はもう現役ではありません。でも、彼ら彼女らには更に若い世代の成熟に思いを馳せながら、自分より若い世代を叱咤し、激励し、慈しむ先輩教師であって欲しい。やり方は人それぞれ、在り方は人それぞれであって良いけれど、自分と出会い、自分を頼りにする若い世代を慈しむ人であって欲しい。心からそう思います。
人は自分が若い頃にしてもらったことを、年長に立ったときに自分もしてあげたいと思う存在です。自分がしてもらえなかったこと、自分がして欲しかったのにその機会がなかったことについて、一所懸命にそれをしようとは思えないものです。とすれば、僕のいまの仕事で最も大切なのは、僕が若いころにしてもらったことを僕が出会った若い世代に本気でしてあげること、そういうスタンスで若者たちなに接すること、それだけなのではないかと思うのです。
僕は若いころ、ずいぶんと周りの人たち、特に年長の人たちに恵まれたという実感をもっています。ここで名前は挙げませんが、この人がいなかったら現在の僕はないなと思う方をたくさんもっています。そうした年長の同僚の方々は、幾人かは既に鬼籍に入られ、多くはいまどうしているのか僕にはわからない人たちです。しかし、お世話になった彼ら彼女らは、いまなお、確かに僕のなかに大きな存在感をもって生きているのです。
人は若いころに自分がしてもらったこと、自分がして欲しいと思っていたのにしてもらえなかったことに大きな影響を受ける存在なのです。なかでも「ああ、この人は自分のことを思ってくれている」「ああ、この人は自分に対して本気になってくれている」と感じた体験は、有形無形にその人の人生に良い影響を与えます。その人の人生観を規定してしまうほどの大きな影響を与えます。その意味で、年長者が若者にしてあげられることは「本気になること」だけだと僕は感じています。
たかが若い頃に接した短い期間のことです。そんな短い期間に結果が出たか出なかったかは、むしろどうでも良いことなのです。自分のために本気になってくれた人がいた。自分という存在を本気で肯定してくれた人がいた。その体験さえ与えられれば、年長者の仕事は既に八割方成功と言えるのではないでしょうか。そしておそらく、このことは毎日子どもたちに接している僕ら教師という仕事においても、同じ構造をもっているのです。本書が教育書として刊行されるのはそうした意味合いなのだろうと思います。
今回も編集の白石正明さんにご尽力いただきました。深謝致します。
伝えなけりゃ/松山千春 を聴きながら……
2015年11月22日 早朝の自宅書斎にて 堀 裕 嗣