AL授業 10の原理・100の原則
こんにちは。堀裕嗣(ほり・ひろつぐ)です。
世の中がおかしくなってきていると感じています。Twitterを眺めていると特に感じます。たかが一四〇字の投稿さえまともに読めない。発信者の意図を理解しないままに自らの思い込みによって批判にならない批判を展開する。批判でも批評でもなく、ただ自分の言いたいことを言うために元投稿を利用する。そんな姿勢ばかりが目につきます。
他人を利用する姿勢は二十一世紀に入って、インターネットの普及とともに顕在化し始めました。特に発信が容易になったBlogの登場とともに目に見えて普及したのだと感じます。他人の文章を全文引用したうえで、「なるほど、と思いました」とか「なんか違うな、と感じました」などのひと言を添えて投稿が完成してしまう。他人の意見にリンクを張って、それを受けて自分の見解を展開するということをしない。他人の文章を字数稼ぎに使う。そんな姿勢です。
こうした姿勢は、誰でも簡単に発信できるツールができたことによって、それまでは発信しなかった人、発信できなかった人が発信し始めたことによって、そもそも発信するための作法を知らない人、もっと端的に言うなら発信する資格のない人が発信したために起こった現象です。発信の作法を知っている人と知らない人とでは、当然のことながら数のうえで後者が前者を圧倒します。それが一四〇字という字数でBlogより更に発信を容易にしたTwitterによってこんな状況になってしまったのだろうと感じています。
BlogもTwitterもツールに過ぎません。ツールが悪いのではありません。ツールを活用するための作法を学ばないままに発信する人、ツールを活用するためには発信のための作法を学ぶことが必要なのだということに及びもつかない人、そうした発信する資格のない人が悪いのです。そういう人たちがネット上にあふれたら、そりゃ世の中もおかしくなるよな……と思います。もうコミュニケーションとは言えないような、「自己主張」とさえ言えないような自己のない「自己主張もどき」を投げつけ吐き捨てるような、嘔吐や排泄みたいな言いっ放しが当然の世の中になってしまいました。それはちょうど、週末の朝に場末の繁華街を歩いていて歩道に吐瀉物を見るような、そんな心持ちがします。
しかし、時間は不可逆です。この流れを元に戻すことなどできません。私たちは発信の容易さを手放すことはもはやできないでしょう。とすれば、取り得る手は一つだけです。それは、「発信する資格のない人たち」を「発信する資格をもつ人たち」に変えることです。学校教育の使命として、それを大きく意識しなくてはならない時代になったのです。私たちはそう考えなくてはいけません。そしてその目的を達するための、これまた大きなツールが「アクティブ・ラーニング」(以下「AL」)なのだろうと思うのです。
もう一つ、Twitterを初めとするSNSが顕在化したものがあります。それは匿名性のもとに、「自己承認欲求」を生のままさらけ出すことです。そして、そうした人々に対して、やはり匿名の心無い第三者が「そういうこともあるよ」「そのままでいいんだよ」と無責任に肯定することです。
仕事がうまくいかない、人間関係がうまくいかない、仕事を辞めようと思っている、Twitterにはそうした投稿が溢れています。そうした悩みをもつことは自然なことです。しかしこの人たちはほんとうに仕事を辞めたいのでしょうか。いろいろと苦しい思いをしているが故に表現としてはこうしたネガティヴな投稿になってはいますが、本来は「うまく仕事をこなしたい」「楽しくやり甲斐をもって仕事に取り組みたい」という想いの方が強いのではないでしょうか。ネガティヴ投稿はそれらの裏返しなのではないでしょうか。とすれば、「そういうこともあるよ」は良いのですが、「そのままでいいんだよ」はまずいのではないか、私はそう感じるのです。
一九八〇年代、戦後、四〇〇〇万人以上増えてきた人口増加が止まりました。国の経済にとって内需拡大の見通しが潰えたのです。それまでは人口増加に伴って、いかなる商品もそれを必要とする人が増えていました。しかし、それが止まったのです。そこで企業が考えたのは、家族をばらばらにすることでした。テレビは一人一台の時代だよ、車は一人一台の時代だよと宣伝し始めたのです。その結果、お父さんは居間で野球中継を、子どもは自分の部屋でゲームや好きなアイドルの映像に興じるということが可能になったわけです。車も夫婦で一台ずつという時代が到来しました。内需は再び拡大したのです。
その結果、子どもから老人まで、すべての人々が「消費者」になっていきました。消費者になるだけなら別に構わないのですが、そこには「消費者精神」というものがついてきました。自分は欲しいものを買っていい、自分は好きなことをしていい、自分はいやな思いをしなくていい、自分は快楽に身を委ねていい、お金さえあればそれが実現できる、そうした精神です。もう家族とのチャンネル争いの時代に戻れるはずもありません。
私は現在の人々がTwitter上で自己承認欲求を生のままでさらけ出すのは、こうした「消費者精神」のなれの果てだと感じています。お金を払って物を買うのうちは良かったのですが、お金を払って時間を買う、お金を払って快適さを買うとなってくると、快適でないものへの耐性が目に見えて減退します。それがとうとう、「消費」ではなく「生産」であるはずの、お金を払うのではなく対価として貰うはずの仕事にまで快適さを求めるようになってしまったのです。そんなことは原理的に不可能です。
おそらく仕事や人間関係がうまくいかなくて退職したいと言っている人たちは、自分が「消費」の場にいるのではなく「生産」の場にいるのだということがわかっていない。自分はお金を払っているのではなく貰おうとしているのだから、快適さは買えないのだということをわかっていない。もしどうしても快適さを得たいと思えば、その快適さは職場での努力によって自ら「創り出す」必要のあるものだということがわかっていない。そうした構造があります。
しかし、時間は不可逆です。この流れを元に戻すことなどできません。とすれば、取り得る手は一つだけです。私たちは「生み出す」ことの、「創り出す」ことの楽しさとやり甲斐が、現象的な快適さなどとは比べるべくもないブレイクスルーをもたらすということを知らなくてはならないのです。体験しなくてはならないのです。学校教育の使命として、それを大きく意識しなくてはならない時代が来たのです。そしてその目的を達するためのツールが「AL」なのです。
ALは活動概念ではなく機能概念である。そう言い続けています。
小集団交流というものは、「活動」させるだけなら誰でもできます。その辺のおじさん・おばさん、兄ちゃん・姉ちゃんでもできます。何も教員免許をもっていなくてはできない作業ではありません。それはちょうど、特に発信の作法を知らなくても、BlogやTwitterを使えるのと同じです。そして「活動」させるだけでも、子どもたちはそれなりに学んでいるような気になります。しかも、楽しみながら学んでいるような気になるから、質(たち)が悪いとも言えます。
しかし、ALのキモは「生み出す」ことであり「創り出す」ことにこそあります。他者の意見を尊重し、自分の意見との共通点・相違点を整理するとともに、その違いを越えて誰もが納得できるような高次の見解はないか、アイディアはないかと高みを目指す営みです。そうした体験の積み重ねだけが、人を「生み出すこと」「創り出すこと」の悦びへと誘うのです。ALはコミュニケーション作法の学びを機能させ、ブレイクスルーの悦びを機能させるものでなければ、ALの名に値しないのです。
これまで『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』(学事出版)、『よくわかる学校現場の教育心理学』(明治図書)、『アクティブ・ラーニングの条件』(小学館)とAL関連書籍を上梓してきましたが、いよいよAL授業の作り方を10原理・100原則として整理するに至りました。本書は原理・原則をまとめようとの性質上、一項目一項目についてどうしても紙幅が限られ、言葉足らずの部分があることを否めません。もう少し詳しく知りたいという場合には、前著三冊とあわせてお読みいただければ幸いです。
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