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規範

時速60キロ制限の道を70キロで走行していても、まず警察に捕まることはない。取り締まりをしていたとしても止められることさえない。高速道路で時速100キロで走るパトカーを追い抜いたとしても、止められることも拡声器で注意されることもない。少なくとも110キロくらいで追い越しをかけている場合には…。それどころか、時速60キロの道を60キロで走ると周りから邪魔者扱いされる。周りの走行の流れを滞らせるからだ。結果、運転免許を取得して数週間から数ヶ月経てば、ドライバーは法定速度を守ることよりも周りの車の流れに合わせることを優先するようになる。むしろ2割増しくらいがほんとうの法定速度であるかのような意識がドライバーに生まれる。しかし、ここで大切なのは60キロ制限の道を100キロで走るドライバーはまずいないし、高速道路も多くのドライバーは120キロは出しても130キロは出さないということだ。これが日本社会だ。

日本人が守る規範は法律ではない。みんなが守っているか否か、みんながどのくらいの違反をしているか、それが法律以上の基準となる。さまざまな場で外から見れば不正なのに内部的には許されているとか、高校卒業すれば酒も煙草もまあいいだろう…とか、愛の鞭と称して体罰が横行してきたとか、ビール2杯くらいまでなら運転して帰っていいだろうとか、こうしたことはすべて日本社会のこの構造による。許されないのは「殺人」とか「障害」とか「窃盗」とかであって、日常の中でまずまず見られるような事象については、基本的にグレーゾーンが許されてきた。それが日本社会だった。

しかし、マスコミの普及を原因として、更にはネットの普及でそれまでは見えなかったはずの人間関係の暗部が見えるようになって、法律や道徳、倫理といった「正しい基準」が世の中を闊歩するようになった。不倫もセクハラもパワハラもブラック企業もみんなこの構図のなかで顕在化してきた。その結果、芸能人や政治家など、有名人の有名税が著しく上がった。グレーゾーンが無くなり、なあなあが許されなくなった。有名になればなるほど、地位が高くなればなるほど、法定速度60キロの道では厳密に60キロで走らなければならなくなった。しかし、周りはやはり、60キロの道を80キロまでは出さないまでも68キロくらいで走っている。だから有名だったり地位が高かったりする人たちも、どこかその新しい基準をなめてしまう。そして週刊誌メディアを中心に、国民的な不機嫌、甘い汁吸ってる者許さじという機運を察知して、そうした鬱憤晴らし、溜飲下げの代弁者として振る舞うようになった。それが次々とトラブルを発覚させ、政治や行政まで揺るがすようになってきている。いま起こっているのはそういうことなのかもしれない。

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