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〈エッセイ〉「ばあーか」か「ぶぁーか」か。
10年前、隣町の総合病院で父が息を引き取ったとき、しばらく母と父を二人きりにさせてあげようと思い、僕と弟は病室を出た。閉めたドアの向こうで母の号泣が聞こえていた。
どのくらいだったろう。20分くらいだろうか。母が落ち着いたのを見計らって僕らは再び病室に入って行った。母は目を真っ赤にしていたが、既に泣き止んでいた。
数日後、葬儀が終わって親戚も皆帰った後、母がぽつりと云った。
「あのね、私さ、お父さんが息を引き取った時しがみついて泣いてたのよ。お父さんごめんね、ごめんねって今までの事謝ってたの」という。
「何を謝っていたの?」と尋ねると、「ほら、お母さん、結構口うるさかったじゃない。あれ食べちゃ駄目とか、ああしちゃ駄目、こうしちゃ駄目って、お父さんがする事に何でも文句云ってたような気がしたんだ」とのこと。
実際に母は口うるさい女だった。
父が糖尿病を患っていたせいもあるが、こと食べ物にはやかましかった。食べ物だけなら良いのだけれど、本当に父のことを子供の様に叱っていた。入院中も父は僕に向かって、「あいつがいると五月蝿くてかなわん」と母のことを愚痴っていた。
母が云う。
「そうやって謝っていたらさあ、お父さんの声がしたのよ。はっきりと!お父さんは目の前で死んでいるのに、病室の中にお父さんの声がしたのさ!」という。
僕は「え?どんな声だった?」と聞いてみた。
「お父さんね、はっきり「ばあ~か!」って云ったのよ!」
僕は笑いがこみ上げてきそうになったが、こらえた。
未だに謎なのは、父のその「ばあ~か!」は
1 「お前、何をいってるんだい?バカなやつだな~」という優しい「ばーか」 なのか。
あるいは
2 「やっと口うるさいお前から離れられるぞ!そうやって泣きながら謝るくらいなら最初から五月蝿く云わなきゃよかっただろう。ぶあ~~か!」という感じの、恨みを晴らす「ばあ~か」なのか。
そのどちらだったのかは、未だにわからない。