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〈エッセイ〉地球時間

(10年前に書いた作品です)

若いころ旅をした。
 
中国のシルクロード、チベット、ネパール、インドそしてタイと、リュックを背負って九か月間さまよった。日本円で一泊200円から400円くらいの「ドミトリー」と呼ばれる多人数の部屋がある宿を選んで泊まり歩いていたから、それらはおのずと共同シャワー、共同トイレであり、衛生状態もあまり良いとは言えない所ばかりだった。食事は一日二回と決め、怪しげな屋台ばかりで腹も壊した。旅行中8キロもやせた。
 
それでも心は満たされていた。

多人数の部屋で初めて出会う外国の旅人たちと意気投合し、適当に英単語を並べ、身振り手振りで行動を共にし、行く先々で一緒に街に繰り出した。夜はホテルの部屋でトランプをしたり、それぞれが好きな音楽のカセットテープを回し聴きしたりして楽しんだ。

それら同室になった旅人達は、二十代から三十代の後半くらいまで様々だったが、皆一様に仕事を辞め、あるいは就職活動で機会を逃し、家を後にして長旅に出てきた者ばかりだった。定職を持ちながら休暇を取って出て来ている者はひとりもいなかった。そして彼らも僕も、あてどなく緩慢に流れて行く時間を体ごと心ごと楽しんでいた。

星や月がきれいだよと誰かが言えば、皆で外に出て夜空を眺めた。タクラマカン砂漠で眺めた夏の夜の天蓋は、今でも瞼の裏に焼き付いている。子供の頃学校で教わった星座が、どこにも見えないのだ。北斗七星、カシオペア、オリオン座を真剣になって探したが、それらは見た事もなかった大量の星屑の中に埋もれてしまい、その姿すらわからない。行方には漆黒の砂漠の闇だけがあり、僕らの真上には音もなく青い銀河が縦に走っていた。その銀河はあまりにも近くて、手を伸ばせば届きそうだった。皆で砂丘の上にあおむけになり、何時間もそれを眺めていた。

チベットではエベレストを観た。高度障害に悩まされながら、ネパール側へ降りる最後の標高5300メートルの峠越えをした。ラサを出て三日間、バスはのろのろとそんな峠をいくつも越えてきた。5000メートルを超えると、大地は僕たちから通常の呼吸を奪いはじめる。皆それぞれが急に無口になり、必死に肺を動かし続けて、気が遠くならないようにふんばるのだ。車窓の向こうに広がる鉱物質の風景と、宇宙に通じるような紺碧の空は、否応なしに生命のなんたるかを僕らに語りかけていた。

その最後の峠の頂上に差し掛かった時、ちょうど夕陽がエベレストの三角形の山容を金色に染め上げた。長旅に疲れ切っていた友人たちの中には、感極まって涙を流す者もいた。頂上を過ぎてバスは一気に標高を下げて行く。するとその行方に緑の森が見えてきた。三日ぶりに見る鮮やかな緑色に僕たちは歓声を上げた。頂上の手前で意識不明に陥り、後部座席に横たえられた香港の女性の顔からは、チアノーゼが消えて明るさが戻って来た。それを見て皆喜んだが、車窓からのエベレストは既に見えなくなっていた。

あれから25年が過ぎた。
国境を超えてネパールに入った後、旅の道連れだったみんなとは別れた。帰国後そのうちの三人とは文通もしていたが、しばらくしてそれも途絶えた。

農機具の輸入販売会社での仕事は、各国の取引先と電子メールや電話でのやり取り。営業の人たちのフォローアップが主体だ。海を渡ってくるコンテナ船のスケジュール、機械の納品に合わせた段取りと取扱説明書の翻訳など。時には胃が痛くなる思いもするし、夜も熟睡できない事もある。

毎日午後4時には欧州各国が動き始めるから、電子メールも分刻みになる。懸案事項がその日に解決しないと重大な事になりかねない時には、深夜まで会社に残って受話器を握り対応する。

25年前。手紙を海の向こうに郵送すると、相手の元に届くのに1週間、返信が届くには更に1週間が必要だった。今は違う。電子メールを打てば数分で返信が届く。ソフトウェアを使用して顔を見ながら会話もできる。

電話でさえも国内の長距離電話料金と変わらない感覚で利用ができる。休みの日でも僕の携帯には欧州からの電話が入る。

それが嫌だと言っているのではない。
好きな仕事をさせてもらっていると思っている。年に数回は出張でそうした取引先を訪ねる旅行もする。しかしそれは若いころの旅とは根本的に違う。あの重いリュックとトレッキングシューズが、いつの間にかレンタカーのアウディーにとって代わり、高速道路を時速150キロで疾走する。六床から十床のベッドがあった汚いホテルの部屋は、心地の良い清潔なシャワー付きのシングルルームに代わり、怪しげな屋台が明るいホテルのビュッフェに変じた。

僕にとって明らかに生活や旅の時間は変化した。しかし僕はあの旅人だった時代の緩慢な時間の流れを懐かしんでいる。

果てしのない大地を進むカタツムリの様なのろのろバス。砂丘の上に寝そべっていつまでも眺めていた砂漠の夏の銀河と同宿の友の横顔。

あそこにこそ、本当の地球時間があったのではないかと。


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