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「日常」を「非日常」とする意味

妻の故郷であるリトアニアの田舎に3ヶ月滞在し、帰国したときの話。笑い話のようですが、日本に戻った瞬間、すべてが眩しく感じられたんです。

この眩しさというのは、都会の華やかさや憧れからくるものではなく、物理的な照明の眩しさのこと。リトアニアでは、ほぼ自然光のみで生活していました。朝日とともに起き、昼間は日光を楽しみ、夕暮れを見送ってから、夜の時間を静かに迎える。夜間の照明も控えめで、間接照明がぽつりぽつりと灯る程度です。空調もなく、自然の気温に身を任せ、寒暖を衣服で調整するという生活でした。

羽田空港駅から電車に揺られながら横浜駅のプラットフォームに立ったとき、ふと思ったんです。我々の生活はすべて機械に操作されているんだなと。

そして次に浮かんだのが、果たして自分の意思決定はどれほど「自分の本意」を反映しているのか、ということです。この感覚は、以前の記事「視覚情報の消化不良」についての問と通じるものでもありました。今回の体験から、私がこうした考えに至ったのは、「日常」を「非日常」として捉えられる時間があったからだと思います。

3ヶ月間という滞在期間は、心身のデトックス期間に長すぎず短すぎず、ちょうどいい長さでした。滞在中デジタルを完全に遮断したわけではありませんが、周囲の環境は日本の数十年前のように素朴で、自然そのものに近いものでした。このような環境で過ごすことで、都会での生活では得られない心の余裕を感じたのです。これは、都市生活とアナログな生活との「差異」を肌で感じたことでの気づきに他なりません。

人工物(情報を含む)に囲まれた都会生活が、私たちからどれほどの「自然」を奪っているのか。自分の「本来の姿」やに向き合うことを可能にする時間とは、一体どのようなものなのか

私たちは日々、情報の渦の中で生活しています。気づかないうちに大量の情報が降り注ぎ、それが自分の意思や行動にどのような影響を与えているか、考えることすら忘れがちです。このような情報過多の中で、「本能」または「本意」に従った行動がどれほどあるのでしょうか。自分の経験や価値観に基づいた発言や決断は、本当にどれだけの割合を占めているのか、改めて疑問に思います。

「気づかないことが幸せ」という考え方もあるでしょう。しかし、都市環境という人工的な空間で「自然体」でいることは、限りなくゼロに近いのかもしれません。その場合、無意識に身体にストレスを溜め込んでいることは否めません。自然との触れ合いは、自分を取り戻すため、あるいは自分をより深く理解するために必要な活動なのだと再認識しました。

林の中に佇む、夏の家。

登山やサーフィンといったアクティブな自然体験をするタイプではない私(茅ヶ崎育ちですが)にとっても、森の中で五感を解き放つような体験は、ハードルが低く、身体的にも精神的にも「情報」との距離を取る大きなきっかけとなりました。今夏リトアニアで過ごしたこの時間は、自分の価値観や本来の自分に気づかせてくれる貴重な機会であり、そこから戻ってきたとき、日常の中でどれだけ自分の心を解放できているかを見直す大切さを教わったように思います。また、様々な方面で、決すべき断捨離の必要性も見えたように思います。

毎朝、家族でコーヒー散歩をした林の道。

当然のことですが、生活を理解することは設計と紐づいています。都市、自然、環境、建築、モノ、コト、ヒト、そして時間や文化が織りなす関係性の大事な一端を体験しました。