ぼる塾あんりとの妄想恋愛 後輩編


ああ、とうとうやったぞーーー

神保町よしもと漫才劇場の騒がしい楽屋をぬけ、自販機でコーラを買うと僕はすぐ後ろにあるベンチに腰を下ろして喜びを噛みしめた。

僕の名前は武威あーる鈴木。芸歴2年目のピン芸人だ。尊敬するR藤本さんを真似してこの芸名にしたが、DB芸人ではない。

一般企業への就職をやめて芸人を目指し、がむしゃらに突っ走って早一年。僕はようやく月クラスから風クラスに昇格できた。

側から見ればたいしたことではないかもしれない。それでも試行錯誤しながら積み重ねたこの一年は無駄ではなかった、そう思わせてくれるこの結果を僕は誇らしげに胸にしまい込んだ。

「あれ、ブイじゃん」

ふと見上げると、おなじみの黄色いシャツを着た憧れの先輩が階段の上から手を振っている。僕は慌てて立ち上がり、威勢よく返事をした。

「あんりさんお疲れ様です!」

「お疲れ。いいよ、座んな」

あんりさんは軽く手で僕を制止すると、自販機で僕と同じコーラを買った。大きなお尻をこちらに向けながら取り出し口に手をつっこむ姿は、なんだか面白くてかわいかった。

「隣いい?」

「ああもう、どうぞどうぞ!」

ベンチのほぼ真ん中に座っていた僕は少し、いや、かなり萎縮しながら即座に端っこまで移動した。

「おい。そーんな場所あけることねーだろ。こんなにスペースないとあたし座れねぇと思ってんのか」

「違います違います!そういうんじゃなくて、自分、場所取りすぎかなって……」

「うそうそ。冗談」

ビビり散らす僕に、あんりさんは目を細めながら優しく微笑んでくれた。あんりさんは劇場内でもかいがいしく後輩の世話を焼いてくれる、頼れる姉御的な存在だ。気取らず、驕らず、僕のような雑魚にも気さくに声をかけてくれる。

「あらためて、お疲れ」

そう言ってあんりさんは僕と自身のコーラの縁をコツッと当てた。先に口をつけたあんりさんを横目で見ながら、僕もちびりちびりと炭酸を喉に流していった。

「そういえばブイ、風クラスに昇格してたよね?」

「あ、はい。おかげさまでなんとか」

「すごいじゃん。おめでとう」

「ありがとうございます!」

僕は座ったまま、深々とお辞儀をした。昇格したうえにあんりさんに祝ってもらえるなんて、今日は人生最良の日ではないだろうか。僕はアルコールも入れてないのにちょっとした酩酊状態になって、背後の壁に身を預けた。

「でもあんりさんのほうが100倍すごいですよ。劇場では花クラスだし、しかもこんなにテレビ出まくってネタも面白いってもう……すごすぎですよ」

「うん……」

語彙力を失いながらもなんとか自分がいかにあんりさんを尊敬しているかを伝えようとしたが、反応は薄くか細いものだった。何か地雷を踏んでしまったのかと思い、僕はとっさに口をつぐむ。

どうしたものかと思案しているその時、僕の身に大事件が起こった。

突如、マリオネットの糸が切れたように、あんりさんが僕の左肩によりかかってきたのだ。

「なんか……疲れちゃった」

「あ、あんりさん?」

僕は今何が起きているのか理解できずに、ただただ身を強張らせてそのままの姿勢を保った。

「疲れたっていうのは……仕事が忙しすぎて、って感じですか」

「…………」

あんりさんは僕の肩に頭を乗せたまま、小さくうなずいた。

あのいつも気丈で頼りがいのあるあんりさんの弱い部分を目の当たりにして、僕は少なからず動揺していた。しかし考えてもみれば当たり前のことなのかもしれない。

テレビの仕事、神保町や幕張劇場で一日2ステ3ステ、ユーチューブ、The W、M-1、ネタ作り……周囲の過度な期待やSNS等でのいわれのない中傷がそこに加われば、そのストレスの大きさは推して知るべしである。

「もう少しだけ、こうさせてよ」

聞いたこともないような弱々しい声だった。

そんなことも知らずに僕はバカだ、と思うと同時に自分の無力さを呪った。僕に実力と実績さえあれば、何か言葉をかけてあげられるのに。

どうしていいかわからず、恐る恐るあんりさんの顔をのぞきこむと、彼女の黒く繊細な前髪が頬をくすぐった。乳白色の肌に薄いピンクの口紅がよく似合っている。男にはない独特な柔らかさがシャツ越しに伝わってきて、僕は思わずどぎまぎした。

怖気づくなーーー僕は心のなかで自分自身を一喝した。目の前で女の子が困っているのに、先輩も後輩もあるか。奮起しろ武威あーる鈴木。

「あの、俺……」

あんりさんの体がほんの少し、ぴくりと動いたようだったが、気のせいだったかもしれない。

「俺、あんりさんに比べたらぜんぜん未熟者だし、年下で頼りないかもしれないですけど、あんりさんにはいつも笑っててほしいなって思うんです。だから、なにか力になれることあったら……俺……」

そう言って彼女のほうを向いたとき、待ち受けていたかのようなデコピンが僕の額を狙い撃ちにした。

「生意気言ってんじゃないよ。ダウンタウンDX出てから言いな」

朗らかに笑うその姿は、もういつものあんりさんだった。僕はおでこを押さえながら、半笑いで応える。

そして立ち直ってくれて良かったと思う一方で、どこかで落胆している自分がいることに気がつき、そのことが新たな動揺を生んだ。

「あんりー!ちょっときてー!」

二階から降ってきた相方の声にあんりさんは「今行く」とだけ答えて立ち上がると、空になったコーラの缶をゴミ箱に入れながら「なんかはるちゃん呼んでるから行くね」と言った。

すると僕の腹の底で何かがざわつき、胸の奥で誰かが《行かせるな》と囁く。身内に突如現れたものの正体を見極められないまま、僕は機械的に頭を下げて彼女を見送った。

「もしかして好きになっちゃった?」とか。「あれ?これって恋なんじゃね」とか。そんな直感的な言葉が頭に浮かんで脳内を占拠し始めたが、「ありえない」や「いやいやないない」という理性の言葉で相殺する。自分の女性遍歴というシールドがある分、理性側がいくらか優勢といえた。

「ブイ!」

果てしなく続く脳内の火消し作業に取り憑かれていた僕はハッとして顔を上げる。

あんりさんは二階へと続く階段の踊り場でちらりとこちらに視線をやると、声を出さずに口だけ動かして《ありがと》と伝えてきた。

強がりの影に隠れたそのいじらしさは、僕の頭の中では核弾頭に匹敵する威力を発揮して理性をあっけなく吹き飛ばした。直感が起こしたクーデターは見事成功を収め、僕は焼け野原にひとりぽつねんと立たされている気分にさせられた。

どうやらもう観念して認めるしかないらしい。僕はあんりさんを、ひとりの女性として意識してしまっているということを。


だがこれが本当に恋愛感情なのか、結論を出すにはまだ時期尚早。憧れと恋心を履き違えるのはよく聞く話である。それでも、彼女の力になりたいと願ったのはまぎれもない真実なのだ。

今の自分では男としても芸人としても太刀打ちできない。芸を磨いて、人間的にも成長してあんりさんの愚痴を聞けるぐらいの男になれたら、その時は結論も出せるだろう。

何にせよ、その為にやることはもう決まっている。

ダウンタウンDXに出演すること。
それが僕の当座の目標だ。


おわり

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