ぼる塾 あんりとの妄想デート

息を切らしながら、僕は待ち合わせの駅までまっしぐらに走った。すでに約束の時間を20分過ぎている。あそこで乗り換えを間違えなければ、こんなことにはならなかったのに。駅から駅へと繋ぐ連絡通路の人混みをかきわけて、僕は遮二無二走った。

ようやくの思いで僕は待ち合わせ場所に着く。駅の改札は平日とはいえたくさんの人が行き交っていて、忙しく歩く雑踏のどこにもその姿は見つけられない。瞼の上に溜まった汗を指ではらいながら腕時計を見ると、長い針は27分を指していた。約束の時間から30分が過ぎようとしている。気分を害して帰ってしまったのだろうか……

「おい」

背後から投げかけられた声に僕はてきめんにうろたえる。慄きながら振り返ると、そこには強烈な〝個性〟そのものが立っていた。

こんな時だというのに僕はまずその、背景に集中線が描かれていそうな独特な顔立ちに目を奪われた。凛々しい眉とふくよかな頬っぺたに圧迫された細長い目。中央には大きく丸々とした鼻が鎮座し、その存在感をはっきりと主張していた。黒髪のボブを後ろで束ね、僕の倍近くありそうな巨躯をベージュのブラウスとブラウンのパンツで包んでいる。いつも背負っている黒いリュックの代わりに、今日は黄色の小さいポシェットを肩から下げていた。

彼女の名前はあんり。僕と同じお笑い芸人であり、同じNSC20期生、つまり同期だ。と言っても、僕は鳴かず飛ばずで生活はバイトで食いつなぐ日々だが、あんりはぼる塾として今まさに売れようとしている20期生の星である。

「ごめん、あんり。あ〜……あの……」

あんりはちょっと顔を斜めに引きながら、冷めた目で口ごもる僕を見ている。まるでヘビににらまれたカエルだ、と思ったのも束の間、あんりがその圧倒的な威圧感とともにこちらににじり寄って来、彼女が一歩を踏み出す度に駅全体がぐうっとかしいだ気がした。

「行くよ」

振り下ろされるかと思った鉄槌はしかし、どうやら不発に終わったらしい。僕はホッと胸をなでおろすと、先を行くあんりの後について改札を通った。次の電車は2番ホーム発。目的地まではまだ小1時間ほどかかりそうだ。

僕とあんりは別に付き合っちゃいない。もっと言えば、お互い好きでもなんでもない。同期内での飲みの席で、あまりにもあんりが恋愛したいと言うものだから、それならと僕に白羽の矢が立ったのだ。

と言うと聞こえはいいが、実際はろくに女性とお付き合いもしたことがない僕を、周りの同期が面白がって半ば強引に彼女にけしかけたというのが実情だった。あんりは「やだー!なんでこいつとデートしなきゃいけねーんだよー!」とお得意の悪態をついていたが、デートスポットやシチュエーションについて話しているうちに場は謎の盛り上がりを見せ、気づけば周囲の人間になし崩し的にセッティングされていた。

そんなこんなの経緯で僕とあんりは現在、電車に揺られながら今話題の水族館に向かっている。吊革につかまっているあんりを見ていると「どうせならはるちゃんと来たかったな」という考えがチラついたが、そんなことを口にした日には顔の右から半分がなくなりそうだったので、胸三寸に畳む。すると、僕の視線に気づいたあんりが訝しげに僕の方を見た。

「何?」

「いや、なんでも」

僕は曖昧に返事をすると、窓の外に目をやった。知らない街の景色が次々と現れては緩やかに流れ、消えていく。水族館に行くのなんていつぶりだろうと思うと同時に、この馴染みのない世界であんりと二人で居ることに不思議な気持ちになった。

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水族館に到着したのは、12時半を少し過ぎた頃だった。13時からのイルカショーまではまだ余裕があり、遅刻によるタイムロスは大勢に影響はないことに少し安心した。

僕らは窓口でチケットを購入し、混み合う前に座席を確保した。もうすぐ始まるショーへの高揚を感じながら、しかし一方であんりとの微妙な空間に若干の居心地の悪さも感じている自分がいることに気がついた。

そもそも僕たちには会話が少ない。行きの電車内でも他愛ない世間話をぽつぽつしゃべっただけ。二人とも異性には口下手だから?直感的に、僕は「違うな」と思った。

それはあんりがどうこうというよりも、お互いの芸人としての立ち位置における僕自身の劣等感に起因するものだと理解するまでにそう時間はかからなかった。

言いたくないが、あんりは僕なんか比べものにならないくらい面白い。見た目のインパクトだけに頼らない実力を備え、毒舌に乗せたパワフルなツッコミは類を見ないし、自分と同い年でありながらテレビでベテランに果敢に絡んでいくその凄さは、芸人の端くれの端くれの端くれレベルの自分でもわかるつもりだ。

五年やってやっとM-1の一回戦を突破した僕とは大違いだ、なんて自嘲する気にもならないくらい埋めがたい距離を僕は今、隣にいるあんりとの数センチに見た。そして間違いなくぼる塾は売れる。そうやってさらに広がっていく距離を僕は割り切ることも見て見ぬ振りもできないまま、指をくわえて眺めていくのかと思うと、今もまた胸に充満する卑屈さがもやもやとその濃度を高めていく気がした。

「この前さー」

突然の、沈黙を破るあんりの声に僕は意識を引き戻された。

「お笑いG7でチャレンジ企画やったんだけど、あたしたちだけ成功できなくて。それがすっごい悔しくてさ」

「あーテニスのやつか。そんなにかよ」

「いやマジでへこむ。だって他の人みんな出来てんだよ?てか申し訳ないのよ。他の人に」

「ほぼみんな先輩だし?」

「そう。ほんと誰でもいいから抱きしめてほしいよ」

「んーいやまあ……まあでも仕方ないじゃん」

「あ、誰でもってお前はダメだよ?お前はごめんだけど」

「なんでだよ。なんで告ってもないのにフラれてんだよ俺」

「今回は、申し訳ないけど落選です」

「うるせえな。エントリーしてねんだよ。応募してないのに落とすんじゃねぇ」

あんりは細い目をもっと細くしてカラカラと笑った。つられて僕も笑う。その時あんりが見せた今日初めての笑顔は、言いたくないが少し可愛かったと思う。女子としてというよりも、マスコットキャラ的な意味合いだが。

「誰か抱きしめてくれるイイ男いねぇかな」

「抱きしめたらそのまま吸収されそうだけど」

「なーんだてめぇこのやろう」

そんな風にふざけ合っていると開放的でハツラツとしたアナウンスが流れ、ついにショーが始まった。僕とあんりは待ちわびた観客に混じって、司会進行のお姉さんに拍手を送った。

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ショーが終わると僕らは順路に沿って様々な海のいきものを観賞した。マゼランペンギン、シロワニ、エイ、サンゴ礁の豊かな海を再現した世界で泳ぐ色とりどりのキイロハギ、クマノミ、チョウチョウウオ……etc。LED照明によって演出されたクラゲたちはとても幻想的だったし、ドラマでよく見るトンネル水槽を歩くとまるで物語の主人公になったかのような気分になれた。

トンネルを抜けると大海原を思わせる巨大な水槽が横一直線に並び、数えきれないほどの魚たちが縦横無尽に泳ぎまわる眺めは壮観だった。僕はほとんど反射的にスマートフォンで写真に収めた。

画像1

名も知らぬ魚の群れを見て、自分はこの中の一匹だと思った。所詮、芸能界という大海を知らずに一生を終える有象無象なのだ。そう思うと今度はこの水族館が恐ろしい監獄のような場所に感じられ、少し背中がうすら寒かった。

どうせならさっき別の場所で見たタカアシガニに生まれたかった。ゴツゴツした見た目、長く鋭い足とハサミ。赤と白のまだら模様も相まって一見グロテスクに見えるが、昔からウルトラマンやゴジラシリーズが好きだったせいか、そのなんというか〝怪獣感〟にたまらなく心惹かれた。

そこまで考えて、そうか自分は〝個性〟が欲しかったんだなという結論に行き着いた。あんりの持つような、群れの中でも一際異彩を放つ〝個性〟ーーー僕はあらためてそれを羨み、嫉み、尊敬した。

あんりを魚に例えるなら何だろう。サメ?雷魚?シーラカンス?トド?ん?トドって魚か?

実物を見てイメージしてみようとあんりの横顔を見た瞬間、僕は思いがけない衝撃に胸を撃ち抜かれ、言葉を失った。

あんりはどこまでも青く透き通る世界を見つめたまま、放心していた。器の広さをうかがわせる朗らかさも、鈍器のような攻撃性もいまは影を潜め、赤ん坊のような無防備な表情をさらしていた。そしてそれは目の前にいるお笑い芸人が、自分の人生を精一杯生きているひとりの女性であることを思い出させた。

陶器のように白くきめ細かい肌と奥に光る儚く美しい瞳。水槽内から漏れだす薄いブルーのライトに柔らかく照らされたあんりは、その……言いたくないが、綺麗だった。

突如、僕は今日あんりとの会話を怠ったことを後悔した。彼女のもっと深い部分に触れたい。どんなことを想い、誰のことを考え、何を忘れたがっているのか。ただ、知りたかった。


寂しい?あんり。

抱きしめてほしい?あんり。

スベったときはつらい?あんり。

頑張って書いたネタがウケたときはうれしい?あんり。

どんなときが幸せ?ねぇ、あんり……


訊きたいことが僕の中で泡を立てて消えていく。話しかける勇気が出なかった以上に、時が許すまで彼女を見ていたかった。水族館を出る頃には今ここに居るあんりは、僕がたどり着けない深海の底へと隠れてしまうだろうから。

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日が沈みきらないうちに僕たちは退館を済ませ、今はもうガラガラの帰りの電車内で並んで座っていた。あんりは明日朝イチで仕事、僕はこのあと夜からバイトに行く。つたない恋人ごっこは終わりを迎え、それぞれの生活がまた始まろうとしていた。

僕は何かを諦めて浅いため息をつくと、一緒にぐう、と腹の虫が鳴った。そういえば今朝は慌ただしかったのでろくに食べていない。バイトに行くまでにコンビニでおにぎりでも買って口に入れよう。そう思って自分の痩せこけた腹をさすった。

「みっともねぇな。ほら」

腹の鳴き声が聞こえていたのか、あんりはポシェットの中から透明のビニールに入った手作りらしき小さなパンケーキを二つ取り出すと、僕に与えた。

「何これ。まさか作ってきてくれたの?」

「バーカ、余ってたんだよ」

なんだ、そうか……と落胆する僕をよそに、ぶっきらぼうにそっぽを向くあんり。

しかし僕は見逃さなかった。すました振りをしている彼女の顔が、耳まで真っ赤になっていることを。

このときのあんりがどうしようもなく愛おしく、無性に抱きしめたい衝動に駆られたことは、いつか言ってもいいかなと思った。人はときに〝個性〟ではなく〝その裏側に潜むもの〟に強く惹かれることを僕は知った。

「あんり。食べさせてくれよ」

「ハァ!?」

僕は図に乗って、あんりをからかってみることにした。こちらを振り返る、困ったような顔がおかしみを誘い、僕は笑いながら大口をあけた。

「はい、あーん」

「馬鹿じゃないの?自分で食べなよ」

慌てて手を振る彼女は気づいていない。今度は夕焼けに染まる自身の顔が、どれだけ魅力的に僕の目に映っているのかを。


僕があんりに恋をする日は、そう遠くないのかもしれない。

おわり

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