妙子叔母さんの話(1)
母と16離れた伯母は、私にとって祖母のようであり第二の母のようでもある、楽しいオバチャンだった。9人兄妹の末っ子だった母と伯母は気が合ったらしく、おばちゃんは私たち家族にとってずっと身近な存在だった。
おばちゃんは生涯独身で、私の知る限り恋人や子どもはいなかった。聞いた話では戦争中、ロシア人男性と恋に落ちて身ごもったのだが、あの時代のことだし、相手は敵国人だったから、かわいそうな結末に至ったという。戦後まもなく本土に引き揚げると、すでに女学校を卒業していたおばちゃんは東京でいろんな仕事に就いたという。詳しいことは知らないが、何であってもたやすいことではなかっただろう。コネやカネはなく、あるのは度胸と愛嬌、行動的で好奇心が強く、珍しいものにはいち早く飛びつき、なんでもやってのける人だった。稼いだお金はさして貯め込まず、自分のオシャレと妹、弟、その子どもたちのために大盤振る舞い。「ケチくさいこと言ってンじゃないよ!」と威勢よく、使う時はポンと使ってしまう人だった。
私の知るおばちゃんの仕事は小さなホテルのフロント係で、夜勤もあったから2日連続で働いて1日休むというシフトだったようだ。ホテルと自宅の中間地点に我が家があったこともあり、おばちゃんはしょっちゅう夜勤明けに我が家へ立ち寄った。学校からうちへ戻り、玄関の三和土におばちゃんのピンヒールがあると私は嬉しくなって、学校であった少々イヤなことなどすぐに忘れた。
我が家では果物などの初物やめずらしい食べ物は大抵おばちゃんによってもたらされた。「一人で食べたってうまくなんかないヨ!みんなで美味しく食べなくっちゃ」と、売り場に並ぶ中でいちばん上等でいちばん美味しそうなやつを値段も見ずに買うのが常だったから、おばちゃんはいつも母から小言を言われていた。「マッ!1900円だって!ウソでしょ?またこんなの買って・・・」
庶民的なサラリーマン家庭の普通の主婦だった母には到底手の出ない代物ばかりで、母としては申し訳ないやら、嬉しいやら、もったいないやら。素直に喜べなかったのだろう。それでも必ずみんなで分けて食べた。グレープフルーツ、キウイ、マンゴー、パパイヤ、メロン。「パパの分」が確保されることはあまりなかったように思う。
先日、商店街の八百屋に今年初のソルダムが並んでいた。初物に接すると私は今もおばちゃんを思い出す。
弾力を帯びて噛むとはじける皮の苦さと、柔く甘い果実とが混ざり合う味とともに。
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