小2の夏休み、私は泣いた。
私が小学生の頃までは、我が家も家族でお出かけというのを頻繁にしていた。夏休みには西にある父の実家へ祖母を訪ね、家族一緒に過ごしたものだ。あの夏までは。
小学校2年生か3年生の夏だった。
父の実家に滞在中のある日、父と私の二人で、隣県に住む父の従兄弟を訪ねた。父と同年代であったそのおじさんは独身で、だだっ広い田舎家に一人で住んでいた。
低い山々に囲まれ、深い緑に包まれたその家は、屋根の大きな昔風の平屋だった。男の一人住まいらしく殺風景で、台所などは大昔に作られたであろう薄汚れたモルタル床の大きな土間だった。
アパート暮らしの東京っ子には、山も畑も小川のせせらぎも、虫や小鳥ももの珍しく、暑さを忘れ夢中で遊んだ。
日が暮れておじさんの家へ戻ってきた私は全身汗だくで、頬や額には濡れた髪の毛がぺったりと張り付き、そんな私を見たおじさんは古びたアルミのタライを土間の床に置いて「そこで汗を流しなさい」といった。父にバンザイさせられて素っ裸になった私はタライの中にしゃがまされ、頭からホースの水をジャバジャバかけられた。蛍光灯に照らされた土間は昼間よりも薄汚く見え、彩りに乏しい殺伐とした空間は私を心細くさせた。
「もういい」と言うと、濡れた私の髪を父がタオルでごしごしと拭いた。着ていた木綿のワンピースは軒下で水滴を滴らせていて、おじさんは自分のシャツを私に着替えさせた。パンツも洗われてしまったために替えがなく、とはいえそのままでは具合が悪かろうと、おじさんは自分の新品のパンツを出してきた。それを履きなさいというのだが、7歳の少女にとって、白いブリーフはさすがに抵抗を感じた。それでも何度も促されたため、渋々足を通すと、気恥ずかしさと心細さで喉の詰まるのを感じながらも、泣き出したい気持ちをどうにかこうにかこらえていた。
するとあろうことかおじさんは「ちょっと見せてみなさい」と言うではないか。どうやら父とおじさんは明るいうちからビールを飲み始めていたらしく、私に行水をさせた頃には酔いが回っていたようだった。真夏の日差しで火照った体に冷水シャワーを浴びたせいか、私は少しぼおっとしてきて、無言でシャツの裾をめくって見せた。おじさんと父は「似合う、似合う!」と言って私の白ブリーフ姿を笑った。そして「今夜はもう遅いから泊まっていきなさい」などと言う。誰にも受け止めてもらえない恥ずかしさや心細さをどうにも出来なくなった私は、とうとうシクシク泣き出してしまった。泣きはじめると抑えることができず、シクシクはえっえっとなり、うわーん!うわーん!の大泣きに、挙げ句の果てに「帰る!帰る!ママのとこへ帰る!」と叫び出した。
思えばそれまで父と二人きりでお泊まりしたことなどなく、しかも初めて来た田舎、ブリーフ姿の私を見て笑った知らないおじさんの家へなど、どうして泊まっていかれよう。
ピーピーワーワーと泣きやまない私に困り果てた父はビールの酔いも冷め、「今晩ここへ泊まっていったら明日あれを食べよう」だの、「東京へ帰ったら前から欲しがっていたあれを買ってあげよう」などと言っては私の機嫌を取りなそうとした。
しかし何を言われても私はさっぱり泣き止まず、そのうち時計の針はてっぺんを指し、帰りの電車もなくなってしまった。酒を飲んでしまったから、おじさんの自家用車で送ってもらうこともできず、さりとて泣き続ける子をこのまま放っておくこともできなかった父は仕方なく、大枚叩いてタクシーで帰宅することにしたのだ。
迎えのタクシーが到着すると、おじさんにさよならの挨拶もせず、ヒックヒックとしゃくりあげながら父に抱きかかえられた私は、車中、父の膝で泣き疲れて眠った。
気づくと父の実家の前で、母が門扉に寄りかかって待っていた。汗と涙でドロドロの顔をした私は母にしがみつき、そのまま朝まで離れなかった。
翌朝、母は私に「何をそんなに嫌がったの。あなたらしくない」と言い、予定外の大出費をする羽目になった父を労った。拗ねた私は口をつぐんだままで、母は「知らないおうちでホームシックにでもかかったのね」という理解に落ち着いたようで、それ以上この件で尋ねてくることはなかった。父は何を思っただろう。見知らぬおじさんの白ブリーフを無理矢理履かされ、その姿を笑われた娘が、いいようのない不安に襲われたことについて。
履いて帰った白ブリーフを、私は祖母の家の家具と家具の隙間に隠した。
これは今思い出しても、ちょっと冷たいものが背筋に走らないでもない忌まわしい夏の記憶だ。7歳の私は本能的に怖さを感じ、この場から離れなければと必死だったのだ。
その後、この時のことが話題に上るたび「お前は一度言いだすと聞かない子だったからな!参ったよ、タクシー代いくらかかったか!」という父。
翌年から、私が夏休みに田舎へ行くことはなかった。
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