山に雨が降るときは
山に降る雨には音がない。草や木や地面は、降りそそぐ雨粒を際限なく吸い込み続ける。山が吸い込んだ雨水は、やがてあらゆる生きものの命の源となる。山はひとつながりの生命体だ。大昔からずっと続いてきた、生命のループだ。
山で雨が降るときは、音より先に匂いで気づく。水気を含んだ空気が雨粒となって空間に落ちるその寸前、あたりにじっとりとした湿り気が漂い満ちると、草や土はウルウルと色めき、今か今かと水分の滴りを待ちうける。
そんな植物たちのざわめきが、締め切った部屋の中にまできこえてくると、降り始めた雨に気づく。同時にどこからともなく漂ってきて鼻をつくのは、人の汗や体臭に食べ物や洗剤などの生活臭が混じったにおい。すると何やらみぞおちあたりがグッと締め上げられるような感じがしてきて、理由もなく悲しい気分に襲われる。雨が嫌いなのは雨そのものに対してではなく、雨が運んでくるこのにおいに嫌悪するのだ。
山並みが担いだ、どっしりと分厚い雲は一向に動き出す気配がなく、今夜はこの湿気とともに夜を迎えることになるだろう。こんな午後はたまらなく、ここではないどこかへ行ってしまいたくなる。だがしかし、あたりを見回してみても草と木々に覆われた山のほか、打ち捨てられた廃屋がただ一軒あるだけで、ふらりと立ち寄れる先などありはしない。行き止まりの山道沿いだから、家の前を行き交う人も車もない。連れがオートマチックを手放してしまってからは、一人で自由気ままに山を下りることもできなくなってしまった。だからだろうか、雨が降るとなおさらこの場所に縛り付けられている気がする。動悸がする。
ふと足もとを見ると、犬が丸まり静かに寝息を立てていて、ゆっくりと上下する柔らかな腹を見ていたら、少しほっとした。この子が目を覚ましたら、雨がひどくなる前に散歩へ連れて出なければ。
こうしてふたたび日常が舞い戻ってくる。思考することなく行動する、過ぎてゆくだけの日常が。でもその方が、どうやら私は正気を保っていられそうな気がするのだ。
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