仮説 知識は相似形によってしか獲得されない 2022年8月

人は新しい知識を獲得するとき、過去に獲得した知識の抽象化された相似形からしか新しい知識を獲得できない。相似とは抽象化して把握することだ。ひとつの現象は、いくつもの面から抽象化できる。例えば、

ツバキの赤い花が咲いた後に実が出来た

これを抽象化する、つまり相似形を取り出すと、

小さな物(子房)が大きく(実)なった
赤い(花弁)のが緑(未熟果)になった
ある物(花)が時間がたつと変化(実)した
美しいもの(花)が目立たなく(実)なった
ひとつの物が二度役に立った(花の美しさと種からとったツバキ油)

等いろいろの相似形が作れる。
これらの相似形を目の前にある現象に当てはめて、新しい知識を得る。
目の前に積んであった積み木を見て、例えば、積み木を積んで遊んだ後に、このあと別のことにもう一度役に立つのではないか、とか。

では一番おおもとの始まりの知識はどんなものか。それは感情を伴った実体験だと思う。
例えば、河原を降りていき、水に入ると冷たかった。
これを相似形で取り出すと、例えば、気分良くまっすぐに行くと気分が悪くなった。などいくつかの相似形が作れる。そのあとに目の前のある現象を見て、さきの相似形を適用して、現象を納得する。ひとつの現象から相似形はいくつもできるので、指数的に知識の量が増えていく。

しかし基本の相似形の型は限られていると思う。この型をひとつでも多く持っている人が、想像力がある、と言うことになると思う。

粗削りだけれど、とりあえずアップします。


いいなと思ったら応援しよう!