映画評 レビュー 「マッチ工場の少女」アキ・カウリスマキ監督1990年公開 2024年6月16日

あらすじ

義理の父の家に母と同居して、マッチ製造工場で働いている地味な女のお話である。給料日に衝動買いした派手な服でクラブに行き、金持ちの男と知り合うが、相手にされず、その後妊娠たことを知るが、事故で流産をする。男に殺意を抱き、自分を大切にしなかった家族とともに殺す。

映画を観る必要を感じさせないほど詳しいあらすじ

https://zilge.blogspot.com/2010/12/90.html?m=1

本作は、アンデルセン「マッチ売りの少女」1845年にヒントを得ているだろう。親の愛情を得れない少女がクリスマスにマッチを売り、寒さしのぎに擦ったマッチの炎の中に優しかった祖母の姿を見て、祖母に抱かれた夢を見ながら凍死する、というお話である。が、本作では主人公は死なず、復讐する。

主人公は、家族、異性から承認を得れず、マッチ製造工場で機械相手の孤独な仕事を黙々とこなす底辺労働者である。
クラブで知り合った男に娼婦と間違われるが、気付かずに付きまとう。男からも、母からもその存在を迷惑がられ、追い詰められた孤独な主人公は復讐する。復讐を遂げた後、自殺はせず、いつも通り工場で働き始める。

監督の視点

疎外された個人が社会に復讐する物語として作られた。復讐型である。逃避型が、密出国を企てた「真夜中の虹」1988年だろう。「真夜中の虹」が復讐型にならないのは、相手が巨大すぎて復讐する術がないからである。というより復讐する相手が誰かさえも意識できないからだろう。「真夜中の虹」で、復讐する相手を可視化したのが本作ともいえる。

私の視点

もし主人公が派手な赤い服を買わなければ、男と知り合うこともなく、勘違いも起きず、妊娠もなく、捨てられた恨みもなく、殺意もなく、終身刑もなかった。しかし終身刑を課されることによって、俗世間の欲望から離れ、主人公は安寧を手に入れたかもしれないと思う。穏やかな気持ちで読書三昧の日々を送れただろう。

また別の展開もあり得た。もし車にはねられなかったら、流産はなく、出産と子育てが優先され、殺人、入獄の選択はなかっただろう。貧困家庭の再生産にはなるが、しあわせがあり得た。

そもそも派手な赤い服を買おうと思ったのは、クラブで誰からも誘われなかったのを、地味な服のせいだと思ったからである。体験から学習するのが苦手だったのである。いずれにせよ、主人公は何らかの方法で自分の人生を納得する必要があった。鬱屈した気持ちを解消する必要があった。つまり行動せざるを得なかった。そこで誰が待っているのかは時の運である。偶然が支配する領域だ。人は外界を操作できない。そこに主人公のことを大切にしてくれる人がいたとしても、学習能力の低い主人公が継続的に良い関係を築けるとは限らない。

また別の見方もできる。内的欲求と外的要因の結果としての今回の選択の連続であったが、ショーウィンドウで赤い服を見つけた瞬間から主人公はワクワクしっぱなしであった。最後に希望が幻想だったと判明して、更に流産という偶然が重なって希望が殺意に転じた時でさえ、ビビドな時を生きた。”今、生きている”という強い実感を持ったと思う。マッチ製造機械と向き合った退屈な人生に比べれば、夢のようなビビドな時間を過ごした。まさに小説に出てくるような体験を”少女”はしたのである。


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