映画評 レビュー 「黒猫・白猫」 エミール・クストリッツァ1998年製作 2023年10月
「アンダーグラウンド(1995年)」の監督の次の作品である。監督はボスニア生まれで、祖母は熱心なイスラム教徒だったようだ。セルビアのドナウ川沿いが舞台で、地元ジプシー(ロマ)のやくざなボスことダダンはセルビア人俳優、主演の少年の恋人ことイダもセルビア人俳優である。
元ユーゴスラヴィアのボスニアを中心として1992年から1995年までボスニア戦争があった。セルビア人(正教会)対ボスニア人(イスラム教)・クロアチア人(カトリック)が戦った。現代のヨーロッパを舞台にした非常に激しい戦争だった。ヨーロッパで戦争が起きたことに、西欧の人たちは衝撃を受けていた。
セルビア共和国では紛争はなかったが、「アンダーグラウンド」はボスニア戦争の最中にセルビアで撮影された作品ということになる。
さて「黒猫・白猫」である。
あらすじ
https://movie.jorudan.co.jp/film/31512/
前作「アンダーグラウンド」と同じくドタバタである。大量の家畜と、大量の現ナマと、多くの騒々しい人達と。すべてが過剰である。二匹目のドジョウを狙っているようである。
ジプシーのマフィアの大ボス爺さんが映画「カサブランカ」での最後のハンフリー・ボガードのセリフ「It is the beginning of our beautiful friendship」を病室で繰り返し呟いていたが、「黒猫・白猫」の最後のドタバタの中で同じセリフを吐いた。
映画の終末、ありきたりの小劇場のクライマックスを思わせる過剰なドタバタで、私はすっかり興ざめしていたのだが、そんな中で大ボス爺さんがこのセリフを吐いた瞬間、「何て人生は楽しいんや」という気持ちが溢れてきた。
結婚式の最中に、新郎には別の女が、新婦には別の男が出てきて、2組の結婚式に変わり、新郎カップルは式の途中でドナウ川を航行していたフェリーに乗り込んで新天地を求め、やくざなボスは肥溜めに落ちて悪臭を放ち、2人の死者は生き返り、ハチャメチャの大混乱なのである。
で、人生何でもありだな、と思ったのである。人生楽しんだもの勝ちだな、と思ったのである。
追補
豚が錆びた車を食べている意味深な場面が何度か出てくるが、それについては最後まで落ちが無かった。あるブログを読んでいると、その車は共産主義時代のメーカーの車で、それが資本主義の豚が食べている、つまり資本主義が共産主義を侵食している隠喩になっている、と書いてあった。なるほど、そんな見方があるのかと、感心した。
私は最後には錆びた車の中から、訳アリの隠された現金でも出てくるのかと思っていたが。
もし監督がそんな隠喩の小細工をしているとしたら、他にも何か仕掛けているだろう。私には探せなかったが。
追記
2017年7月にサラエボの首都ベオグラードを旅行した。ボスニア戦争の記憶があったので、セルビアには良いイメージはなかった。
ブルガリアの首都ソフィアからセルビアのベオグラード行きの長距離バスに乗り、国境をまたいだニシュで乗り換えた。セルビアの通貨をそこで引き出しておきたかった。というのも途中のトイレ休憩でトイレに入るときにセルビアの現地通貨がどうしても必要だったからだ。バスターミナルにATMが無かったので近くに銀行でもあるかな、とグーグルマップを見ていると、通行人が声をかけてきた。事情を話すと少し離れたところにあるという。一緒にバスターミナルを出て(セルビアのバスターミナルは入場するのに入場料が必要)、バスの乗り換え時間が15分しかないことを知ると、それじゃ無理だから、と言ってトイレに必要以上のお金を渡してくれ、再度バスターミナルに入場するときは、かなりの時間をかけて係員を説得して無料で通してくれた。
私の旅行の中で、見知らぬ私に最も親切だったのは皮肉にもセルビア人だった。ベオグラードで働いて、ニシュに帰郷したところだ、と言っていた。
そのニシュからベオグラード行きのバスに乗ったとき、二人掛けの隣席に顔に傷だらけの大男が乗ってきた。ボスニア戦争のとき、民間人を殺したのかなぁ、とか、レイプしたのかなぁ、とか、これからしばらく席が狭くなるなぁ、とか思っていた。ところがこの風体にもかかわらず、私にとても気を遣ってくれ、私に当たらないようにずっと小さくなって座ってくれた。おかげで私は窮屈な思いをしなくて済んだ。途中でバスを降りて行く彼に私は頭を下げた。
イスラエルの次によくない印象を持っていたセルビアだが、入国する時点で、全く違う印象の国になった。
ベオグラードにはNATOによる旧ユーゴスラビア国防省本部ビル空爆跡が記憶のために残されている。私はてっきりボスニア戦争の時のものだと思っていたが、今回調べてみると1999年のコソボ紛争の時のものであった。
2017年9月にはサラエボを旅行した。スナイパー通りという町の目抜き通りがあって、丘の上からセルビア人狙撃手がこの通りを歩くボスニア人を見境なく狙撃したのでこの名前がついている。子供も例外ではない。昼間は危ないので、夜に人々は行き来した。
「子供も撃つんだぜ、全く理解できない」とあるボスニア人は言った。
スパイナー通りに限らず、ビルの壁には銃弾や砲弾片?の跡があちこちに残っていた。
戦争の記憶として残しているのではなく、貧しくて補修できないから残しているようだった。
ボスニア戦争当時の世界の風潮はボスニアに圧倒的に同情的だった。イスラム教徒のボスニア人部隊に有利な情報が洪水のように流され、キリスト教徒のセルビア人部隊に不利な情報が併せて流された。当時セルビアを中国が支援していたこともあったのだろうが、今となっては不思議な感じがする。