エッセイ 文芸作品について 2023年5月

先日ユーチューブで林真理子氏と成田悠輔氏の対談のさわりを見ていると、林真理子氏が〝売れることを常に目指す〟という、ある意味当たり前のことを言っていて、それに触発されて、作品の価値について考えてみた。
きっかけとしてこの動画を見ただけなので、ここにURLは付けない。

売れる作品を書く、という言葉を聞いて、とりあえず思ったことは、自分の価値と世間の価値とのどちらを大切にするのかな、ということであった。世間の価値とは、簡単に言ってしまうと、損得つまり利益のことである。多くの場合、自分の価値と世間の価値とは一致する。故に自分の価値を追求すれば利益もついてくる。しかしこの幸せな並走はいつまでもは続かない。自分の価値と、利益のどちら側にどれだけ比重をかけるか、決断するときが必ずくる。

と、言うようなことを思った。次に浮かんだ評価軸は、

1世間に評価されたい、と2社会を変えたい、である。1の世間に評価されたい、は、受動的で、世間の価値を大切にすること、と同意だろうし、2の社会を変えたい、とは、能動的で、自分の価値を大切にすることと同意だろう。

1世間に評価されたい、の具体的内容は、
1)未知の世界の提示。例えば、盗賊の暮らし、宇宙旅行。
2)自分の可能性を予感させる世界の提示。例えば冒険活劇譚。ヒーロー、ヒロインものである。

2社会を変えたい、の具体的内容は、
1)前提の意識化、常識を問う物語の提示。それまで当たり前と思っていたことが、実は当たり前でない、という問いかけである。
2)抑圧されたものの露出。例えば道徳、倫理の問い直しである。

これらをさらに抽象化すると、以下のようになると思う。

1元気にさせる作品
即物的に言えば、明日からまた元気で働こうという気持ちにさせる作品である。新しい知識を獲得させるもの、人生の滋養物、活力の充填、憂さ晴らし。微に入り細を穿ったしみじみにとさせる作品も読者側がそこで終われば憂さ晴らしである。つまりこれらはすべて快なのである。読者からすれば、どれだけ自己肯定感が獲得できるか、が問われている。

2読者のその後の人生を変えようとする作品、簡単に言えば不愉快な作品である。
抑圧したものの露出によって、後味が悪い。
自分の常識に挑戦されたことによって、素直に楽しめない。つまりどちらも不快である。読者からすれば、どれだけ自分が変われるか、試されているのである。

小説家は上記2者のどちらかに比重を傾ける決断をする時が来る。元気にさせる作品を書けば、間違いなく売れ易くなるだろう。読者を不快にすれば、売れにくくなるだろう。

この対立軸は小説、文学に限らず、映画でも、絵画でも、音楽でも存在すると思う。例えば不協和音を含んだ楽曲は、音楽の側からの、視聴者の人生への挑戦だと思う。


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