映画評 レビュー 「永遠と一日」テオ・アンゲロプロス監督1998年公開 2024年5月12日
永遠と一日という言葉を聞いて普通イメージするのは、瞬間の連続が一日も作るし、永遠も作る。つまり同じもので出来ている、というイメージではないだろうか。この映画は直接にはこの主題を表現していない。
映画を観る必要を感じさせないほどの詳しいあらすじ
https://zilge.blogspot.com/2008/11/blog-post_02.html?m=1
詩人として功成り名を遂げた老人と、アルバニアからの密入国の少年の交流の話である。
老人は自分なりに言葉の問題に向き合ってきたが、今となってはどれも未完に終わったと思っている。言葉を探したが得られなかった。強い喪失感、人生の空虚感がある。
少年は仲間と暮らすストリートチルドレンだ。強い仲間意識の中で生きている。
表題の「永遠」とは、老人が映画の最後で、入院するのをやめる、つまり人生を諦めるのをやめて、明日、つまり永遠を生きようとしたことに依る。
「一日」とは、私の日、と妻が呼ぶ特別の日のことで、妻が娘を生んで、そのお披露目式の日のことである。妻は強く老人(夫)を恋したのに、老人は言葉のことにかかりきりで、妻の気持ちに答えられなかった。そしてその妻は今はもういない。
映画は少年と出会った一日だけの出来事を描いている。そこに、私の日、の一日が思い出されて織り込まれる。つまり今の一日と、過去の一日だけで構成されている。
終盤に、二人が別れる前に最後にバスに乗る場面がある。二人がバスを乗っている間、いろんな客が乗っては降りていく。ギリシャの現代社会の縮図を表現したのだろう。印象的なやり取りである。
自分の夢を諦めた時に関係の大切さが見える。今は亡き大切な人を大切にできなかった。しかしこれからも生きていこうと思えたのである。少年と亡き妻の思い出がそれを可能にさせた。
ここで監督は、ギリシャ国家でもなく、ギリシャの民主政治でもなく、人の関係を中心に据えた映画を作った。この映画にギリシャのメタファはもうないと思う。監督の問題意識は変わったのだ。
追記 2024年5月18日
映画の最後で主人公が亡き妻に明日の長さを尋ねた時、妻は「永遠と1日よ」と答える。主人公はうまく聞き取れずに聞き返す。そこに 妻を大切にできなかった後悔や悲しさはない。
そこから考えるとこの映画は、人生を諦めていた主人公が明日を生きようと思えたことが監督にとっての映画の主題の可能性がある。
つまり少年や 妻は映画の進行役で、中心課題は人生を諦めていた主人公が明日を生きようと思えたことだ。
だとしたらここには相変わらず関係よりも 主義主張の方が大切だと考える監督の姿勢があることになる。
答えは監督の今後の作品を見れば分かるだろう。
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