映画評 レビュー「ユリシーズの瞳」テオ・アンゲロプロス監督1995年公開 2024年5月12日

公開時、映画館で観たが、全く意味が分からなかった。表題の「瞳」は英語では「gaze」なので「まなざし」で、指示しているのは瞳自体ではなく、瞳が見たものだ。ギリシャ語でも同じである。

ユリシーズとはオデッセウスの別名で、トロイ戦争を勝利に導いたのち、ポセイドンに航海の邪魔されて帰国できずに放浪、息子のニコマコスが乱れた自国を憂いて父探しに出かけ、合流、帰国し妻に言い寄る男たちを殺すギリシャ叙事詩の主人公である。

主人公のハーベイ・カイテルはミスキャストだと思う。映画の前半は、なぜこの人だったのだろうと、疑問を持ちながら観続けた。調べてみると、両親はそれぞれ東欧の出身だが、ギリシャとは関係がない。どうせ外国から呼ぶのであれば、もう少しギリシャに関わりのある人を呼べばよかった。唐突感が否めない。

映画を観る必要がない、と思わせるほど詳しいあらすじ

https://zilge.blogspot.com/2008/11/96_27.html?m=1

主人公は未現像のギリシャ初のフィルムを求めて、ギリシャからアルバニア、北マケドニア、ブルガリア、ルーマニア、セルビア、ボスニアと移動する。この順路はユリシーズの帰還とは一致しない。
時代は、第2次大戦中のギリシャ内戦(1930年代後半)から、ルーマニア滞在中でのソ連崩壊(1991年)、そしてボスニア戦争(1992~95年)までを描く。

アルバニアに向かう主人公が乗るタクシーの運転手が「この国は年を取り過ぎた」と言う。このセリフを聞くと、監督はまだギリシャにこだわっているようである。しかし舞台を見れば、監督の関心はバルカン半島に及んでいるように見える。

映画のテーマはまなざしである。まなざしとは見ようとする行為、つまり欲望のことだと思う。主人公は何を欲望したのか。

主人公はかつてギリシャの神殿で写真を撮ろうとしてシャッターを切ったが何も映ってなかった。ギリシャで初めて撮影された未現像のフィルムを追いかけ、ようやく見つけ出し、現像してみると何も映ってなかった。

つまりギリシャの大切なものを欲望したのだが、実は空虚なものに過ぎなかった。

これは「霧の中の風景」で、解散した旅芸人とおなじアナロジーだろう。つまりかつて一生懸命にギリシャ市民が求めた民主政治やギリシャの大切なものが、実は空虚なものに過ぎなかった。
壮大な舞台を使って表現された壮大な喪失感である。

巨大なレーニン像が吊り上げられ、船に乗せられる場面が公開当時に話題になったが、これもそのアナロジーの一つだろう。だとしてもいかにも大仰である。こんなところに金をかけてどうする、と言いたくなる。

主人公はバルカン半島をフィルムを追って周遊するが、その周遊に特に意味があるようには思えない。ギリシャ出国前後とボスニアだけで十分に物語が作れたと思う。

サラエボと思われる広大な廃墟が現れるが、セットにしては巨大である。お金が掛かり過ぎる。この映画の公開は1995年なので、撮影は1994年以前だろう。サラエボは1995年でもセルビア人勢力からの攻撃を受けていた。近くの丘からの狙撃が主だったが、砲撃も行われたようである。この舞台が本物だとしたら、どうやって撮影したのかな、と思う。霧が深ければ見通しが効かないので、外に出られたのだろうか。更に廃墟も、鉄筋がむき出しの廃墟ではなく、窓がなくて、ただ人が住んでないだけの建設途中のビルのように見える。不思議な光景である。


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