エッセイ 洋包丁とジャガイモの芽 2024年1月19日

日本ではミシンが輸入されるまでは、手縫いで衣服を裁縫していた。運針である。これをもって、日本人は合理的精神が弱かった、と言われることがあるが、だとしたらヨーロッパ以外の、ミシンを生み出ださなかった世界の全てが合理的精神が弱かったことになる。
技術力の高い国がミシンを発明して、それが世界に伝播しただけ、の可能性が無視されている。

その技術力の制約条件をクリアーするよい実例がある。調理器具である。調理器具自体は高い技術力を必要としない。なので世界中でより条件を合わせやすい。

さて

がっしりとした洋包丁を一本持っていた。包丁自体が重かったので、強く押さなくても自重が効いて、切るのが楽であった。安全のためか洋包丁の手元側の刃は付いてなく、鈍角で仕上げられている。つまりジャガイモの芽を根元の刃の角でほじくり取れないのである。
ではポーランドやドイツやアイルランドではどうしているのか。
それ専用の道具があるのだ。ジャガイモの芽取り器である。
ジャガイモ関係で言えば、ヨーロッパでは皮を剥くピーラー、茹でたジャガイモを潰すマッシャーも役割に特化した道具だ。
中古屋でグレープフルーツ専用のナイフを見つけた時にはさすがに驚いた。一つの材料に対して一つの調理器具があるとしたら、台所が道具だらけになってしまうではないか、と。

それに対して日本ではそれ専用の道具を作らず、一つの道具を応用して出来るだけ多くの仕事に用いようとする。日本は、というよりこの思想は中国のものだろう。中国の大衆食堂に行けば、丸い生板と、背の高い大きな包丁一本でいろんな料理を紡ぎだしている。

少なくとも日本に限って言うと、合理性よりも、精神性が大切にされたのだと思う。具体的には、職人の修業の精神である。身を修めて、高い技術を身につけることが貴ばれた。今でも日本料理の料理人はピーラーやスライサーを使っていない。手間をかけて剥き、手間をかけて切り揃えているのである。

追記

●  職人の修業の精神を日本人の遺伝子に備わっている特性のように言う人がいるが、私は見せかけの特性だと思う。日本人がヨーロッパに行って調理すれば、ヨーロッパのやり方に合わせるだろう。日本の調理人が日本風の調理法を採用しているのは、周りがそうしているから、というのが一番の理由だと思う。周りがしているので、自分もする、ということが、逆に周りの特性を強化することにつながり、相互に影響し合って均衡を保っている。そこに「職人の精神を貴ぶ日本の文化」という概念を貼り付けているだけであろう。そもそも文化とはそういうものなのだろうけれど。

●  昔からそれぞれの役割に合った道具をヨーロッパで揃えていたとは思えないので、貧しかったころは汎用性の高い道具を使いまわしていただろう。しかし豊かになっていくにつれて、合理性を追求できる場面があれば追求しようという態度で、ものごとに当たったのだと思う。
しかもその精神が一部の職人だけでなく、民衆にも広がっていった。

道具が個別化していったのは、大量の料理を用意しなければならない王宮が始まりだったと思う。
同じ前提は中国にも、日本にもあった。しかし民衆への道具の個別化はほとんど起きなかった。

続追記

京料理が発祥の、飾り切り、というのがある。それぞれの素材に切り目を入れて美しく見せる技法である。例えばシイタケの上面を星形に切り抜いたり、輪切りにしたニンジンを花形に切り込みを入れたり。

職人については、それぞれの作業にあった包丁が使われた。包丁に関しては、作業効率、つまり合理的精神が発揮された。
それで思い出すのは、彫り物師や指物師は、実に多くの種類のノミやカンナを持っている。
つまり職人は作業効率を求めたのだ。