機会損失と人生 2022年11月
ネットで動画を見ていると、ある人が経済学の概念である機会損失を人生に当てはめて話していた。違和感があったので考えてみた。
機会損失とは、知識や経験不足によって本来得れたはずの利益の喪失のことである。例えば製造者が、需要の拡大を見通せず、商品を用意できなかったために、本来商品を準備していれば、売り上げられていたであろう売り上げと本当の売り上げの差額である。
人生に応用すれば、
知識の泉のようなスマホが、価格が高いからといって購入を遅らせれば遅らせるほど世界の知を利用できずに機会損失が増える、といったような場合である。
この動画を見た当初は、経済学の概念は人生に馴染まないのではないか、と思った。
機会損失と似た概念に、やはり経済学の概念で機会費用というのがあって、こちらの意味は、
ある一つのことを選択した時、選ばなかったもう一つを選択した場合に得れたであろう利益のことである。つまり同時に二つのことを実行できないので、もし選択したら得れたであろうもう一方の利益のことだ。別の言い方をすれば、選択しなかったので得れなかった損失のことである。
これを人生に応用すると、
今日久しぶりの休日だった。ハイキングに行くか、家でゆっくり過ごすか迷ったが、結局家でゆっくりした。ハイキングに行けばもっと気分が良かっただろうが、家で過ごして自分のことを見つめられたのでそれはそれで良かったかな、というような場合である。
この機会費用の例は私には違和感がない。日常生活で二者択一するとき、効用のより大きいほうを評価する、というのはよくある態度だと思う。
ではなぜ機会損失の例には違和感を感じるのだろうか。
それは過去の判断を全的な失敗だとみなしているからだと思う。
上記の機会損失の例で言えば、スマホの購入が遅れれば遅れるほど、人生の損失が積み上がっていくことになる。しかしスマホが無ければ無いなりに、どこかから、例えば図書館から知識を仕入れていた。もちろん効率は悪かったが、その途中でいろいろなことが起こり、いろいろな体験をしただろう。
つまり効率が悪い、というマイナス面もあれば、予想外も含めたいろいろな体験ができたというプラスの面もあったのだ。
ところで、機会費用の時は、家でゆっくりするという効用のより大きなほうの選択を肯定しておきながら、機会損失の時はスマホの早期購入という効用のより大きなほうの選択を手放しでは肯定していないのは、矛盾するのではないか。
結局繰り返しになるが、否定の範囲が違うのである。
つまり機会損失は過去の選択の全否定である。ただただ機会が失われていった。損失が増大していった。
機会費用は、もうひとつの選択のほうが効用が大きいようだが、こちらもそれなりの効用があるな、という部分否定である。
人生において、丸ごと否定されるような体験はない。経済学が対象にしている企業は利益獲得が第一の目的であるから、利益を損失させた選択が丸ごと否定されることもあるだろうが、人生の第一の目的は利益獲得ではない。
驚いたことに結論は当たり前のことになってしまった。
以下が私の言いたかったことです。
これは人生の目的を何とするかで考え方が違ってくると思うが、過去の事実は変更できない。変更できないことについて、全否定して、過去の自分の選択を否定しても何もプラスにならない。自己評価を下げるだけである。よく言われることだけれど、過去の事実は変えられないが、事実への評価は変更可能である。
悪いこともあったけど、良いこともあったなぁ、というのが自己評価を下げない認識方法だろう。更に言えば、あの事があったから、今の素晴らしい自分があるのだ、まで行けば、いうことはない、と思う。