映画評 レビュー「真夜中の虹」アキ・カウリスマキ監督 1988年公開 2024年6月14日

アキ・カウリスマキ監督の映画はこれまで、「レニングラードカウボーイ ゴー アメリカ」1989年や「街のあかり」2006年などを観てきた。
本作は、これまで観てきた中で一番初期の作品になる。

あらすじ

https://ameblo.jp/kenkou-oyajida/entry-12839270773.html

概略は、失業した男がヘルシンキで右往左往しながら生きていくお話である。知り合った女とその息子の3人で国外逃亡するところで話は終わる。

多分にコメディ色の強い間抜けた男の、これもまたコメディ調の未来に向けた絶望的な歩みを描いている。
主人公は強いられた絶望的な選択を何の悲壮感も漂わせずに淡々と生きていく。ポジティブに、ではなく、既に決まっている運命のように。
女とその息子といるときには束の間の暖かい空気が流れる。日常ではその子供は放ったらかされ、ひとり遊びをしていて、妙にしっかりとしている。
大人たちは行き当たりばったりなので、当然状況は悪くなり、追い詰められていく。
具体的には、金を奪われた強盗をたまたま見つけ、殴っているところを監視カメラに撮られ、殺人未遂で入獄。女からの差し入れの中に隠されていた鉄ノコで、脱獄。警察から追われる。
で、一発逆転の3人での海外密出国である。
船の行き先はブラジルのようだが、もちろんバラ色の生活が待ち構えているはずはない。もしかすると乗船自体が詐欺で、船にさえ乗れないかも知れない。

監督の視点

主要登場人物はすべて底辺で生きる人たちである。監督が表現したい対象はこの人たちだろう。では彼らの何を表現したいのか。
目の前の出来事を運命として受け入れ、長期的な目標も、そこに至る戦略もない。その瞬間その瞬間を最適化して生きている。そもそも希望など持てる状況ではないことを彼らは重々承知していて、それ故に目の前の出来事を運命として受け入れ、刹那の快を楽しむようにしている、それを監督は表現しているのだと思う。

本作の題名は「真夜中の虹」で、深夜、岸辺から小舟に乗って乗船する船に向かう時に見えた周囲の明かりの譬えである。未来の希望に向かう時に、夜景に浮かぶ船の明かりが虹に見えたのだ。もちろんそれは反転した意味だろう。
英語の題名は「Ariel」で、北アフリカとヨーロッパに生息するインパラ、オリックスの仲間である。映画では乗船する船の名前がArielだ。希望に向かう船だが、主人公たちは自分たちが乗る船の名前さえ知らないだろう。

「街のあかり」と雰囲気が非常によく似ていて、時どき混乱した。多分構造が似ているのだろう。この構造が監督の基本の表現型なのだと思う。具体的には、共同体からの後ろ盾を無くした、感情の抑圧された主人公が、騙されながらも、淡々と人生を生きていく。そこに絡んでくる様々な他者が個々の物語をかたち作る。

本作翌年に撮られた「レニングラードカウボーイ ゴー アメリカ」は西側に普及した共産主義イメージのパロディー映画である。本作も多分にパロディー色があるが、底辺労働者を茶化す目的ではなく、人間味を出すために、そして絶望的に暗い話を明るくするために脚色したのだろう。


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