エッセイ 徳川道 神戸事件 2024年8月18日

神戸市西区にある高塚山ハイキングコースを歩いた。

山から海側が一望でき、中央に霞んで見えるのが明石大橋で、向こう側が淡路島である。

この高塚山には幕末に作られた徳川道が通っている。正式名称を西国街道往還付替という。

1862年、横浜で生麦事件が起こった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

東海道を通っていた薩摩藩主の父の行列に民間のイギリス人4人が馬に乗って逆走し、切りつけられ1人が死亡、2人が重症を負った事件である。

幕府は多額の賠償金を払い、翌1863年にはこれがきっかけで薩英戦争が起こった。この事件に懲りた幕府は外国人と大名行列が遭遇しないような措置を取った。

神戸港が開港されたのは1868年1月1日である。開港されると外国人居留地が作られ、外国人が通りを歩くことになる。神戸港のそばには西国街道が通っているので、大名行列と外国人が遭遇する可能性が高い。それを避けるために作られたのが西国街道往還付替、つまり徳川道である。

起点の神戸市東灘区から西国街道を山側に外れて、明石市で再び合流する約35キロの道である。この道は2ヶ月かけて1868年1月に完成したが、この年10月に明治新政府が始まり、実際に大名行列が通ることは一度もなかった。

1868年1月、戊辰戦争が起こり、幕府側の尼崎藩を牽制するため、備前藩兵が西国街道を東に進んだ。この時、大砲を持った一部の藩兵が徳川道を通らずに西国街道を通ってしまう。1868年2月のことだ。そこで神戸事件が起こる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

フランス人水兵2人が行列の前を通り、切りつけられ軽症を負った。結局、責任者1人が切腹をする。

後続の部隊は異変に気付き、徳川道を通った。これが記録に残る徳川道が使用された唯一の例である。

というような歴史を持つ徳川道の一部を歩いた。山道でやぶ蚊が多く、大変であった。

追記  

1868年3月にも似たような堺事件が起きている。ここでも11人が切腹させられた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

日本はアジアやアフリカの国々の中でも珍しく、欧米列強諸国からの屈辱的な歴史をほとんど持っていない国である。アジアやアフリカに旅行してその国の近代史を少し勉強してみると、気分の悪くなるような出来事が無数に転がっている。
強ければやりたい放題である。無理難題の押し付け放題である。

日本でも生麦事件では幕府と薩摩藩からイギリスは巨額の賠償金を獲得している。

かつては国際法も未整備だったので、法的に避難されることもなかった。


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