日本の健康至上主義を問い直す~幸福な国々の死生観から見る健康~④
4章:「死」と共に生きる
2011年に発生した東日本大震災は「死」の重要性を我々に突き付けた大きな出来事であった。当時、辻(2012,p5)は東日本大震災について社会の大転換期であると述べていた。つまり、スウェーデンやブータンのように「死」を受け入れる社会への転換期であったのだ。しかし、東日本大震災から10年経った現在においても、社会は変わっていない。むしろ、新型コロナウイルスという新たな社会危機が拍車をかけ、社会は「死」を排除する方向に進んでいる。10年前の大転換期であった際に、どのように日本は変わるべきであったのだろうか。東日本大震災の教訓の分析から、本章では今後の日本の社会における「死」の関係性、ひいては幸福の在り方について論じていく。
1節:リスクと恩恵
東日本大震災で被災した岩手県や宮城県などの地方のコミュニティは、本来のコミュニティの在り方を示してくれた。被災地の人々はコミュニティを形成できていたからこそ、行政の支援が届くまでの間、互いに支え合いながら、未曽有の大災害を乗り越えられることができたのであろう。田中(2012,p15)は「行政に頼り続けること自体が言うなればコミュニティが崩壊している状態で、共同体の自立性が失われている」と指摘している。そういう意味で辻は「社会の転換期」と述べたと考えられる。そして、本論文で論じてきた通り、共同体として成立するには、共同性を持つ「死」が不可欠である。つまり、コミュニティの在り方への問題提起は、「死生観」への問題提起ともとれる。したがって、辻が述べた「社会の転換期」とはコミュニティの在り方の転換期であり、「死」を社会で受け入れる転換期でもあったと言える。
しかし、現在では東北を離れる人が増え、人口減少が進んでいる。東日本大震災はコミュニティの大切さを示した一方で、自然の脅威を如実に伝え、コミュニティを解体させるきっかけになったのだ。プラス面、マイナス面の両方を伝えた東日本大震災から10年経った現在、新型コロナウイルスや更なる情報社会の発展により、ますます個人化の流れが進む一方である。辻(2012,p23)は結城の発言を引用し、「リスクと恩恵」という言葉を用いて、この現状を批判している。漁村の例を挙げ、
海に出ていのちが失われるという事実を受け止め、共同の祈りの場を持ち続けてきたコミュニティ。そこで暮らす人たちは、自然と向き合い、自然とともに生き、その恩恵を受けながら、同時に大きなリスクを背負っている。ところが都会では、その恩恵だけを受け取って、リスクは負わない。こういういびつな構造がもう限界に来ているんだ。と結城さんは言います。
以上のように述べている。東日本大震災では、東北の豊かな自然と大津波という自然の脅威の「リスクと恩恵」がまさに表れていた。辻が述べている「リスクと恩恵」は、現代の多様な場面で当てはめられる。例えば、自然におけるリスクと恩恵のほかに、現代で問題視されているユニクロとウイグルのように搾取する、される関係などは当てはまるのではないだろうか。先進国の我々は安価で良質な服を身に纏っているが、その背景には中国・新疆ウイグル自治区におけるウイグル人の強制労働という問題が存在する。恩恵だけを享受し、人権問題には目を瞑る。まさに「リスクと恩恵」が表れている。
そして、その「リスクと恩恵」の最たるものが、まさに本論文で論じている「死と生」である。現代では、家や共同体で「死」を看取ることは少なく、病院で「死」を迎えることが主流だ。それはまるで臭い物に蓋をするかの如く、「死」というリスクを日常から遠ざけ、その「死」を誰かに看取ってもらうことで現代の人々は「生」という恩恵のみを受けていることを示している。
これらの問題を「養生」で当てはめると、内欲の暴走だとも言える。ほどほどの欲を楽しむために、節欲を心掛けた「養生」では、欲を排除せよとは説かれていない。「養生」では「生」を楽しむためには「死」を排除するのではなく、うまく対処し、自身に向き合うことを勧める。
「死」を遠ざけて生きる人々は、おそらく都会の中で自然の恩恵だけを享受し、安価で質の良いモノに囲まれて生きているに違いない。しかし、生活の裏には、リスクを背負って生きている人たちのおかげであることを忘れてはいけない。自然と向き合い食を支えてくれる人がいて、劣悪な労働環境下で私たちの生活を支えてくれる人がいて、「死」を代わりに看取ってくれる人がいるからこそ、不自由なく、リスクを背負わないで、恩恵だけを受けて生きることができているのだ。「失われた30年」と呼ばれる1990年台以降の低迷で失われたものは経済成長ではない。リスクを受け入れることである。恩恵が失われたのではなく、恩恵を自ら手放していったのだ。
一方で、スウェーデンやブータンは共同体で「死」を受け入れていることから、リスクを受け入れて生きているのではないだろうと考えられる。両国とも「自然」というキーワードが浮かび上がってきたことは、まさにリスクを受け入れている確固たる証拠である。過度に都市化を進めるのではなく、自然と共存する形で進む両国からは、リスクと恩恵の関係を理解していることが伺える。リスクを受け入れることが恩恵に繋がり、結果的に幸福に繋がる。
これからのポスト近代社会の日本を考えるにあたって、リスク、すなわち「死」を受け入れることは欠かせない。次節では「リスクと恩恵」の問題を解決するためにスウェーデンやブータンを参考に、日本における「共同墓地」の可能性について考えていく。
2節:共同墓地のすすめ
日本がポスト近代社会を目指すにあたって、2節で論じたようにリスク、すなわち「死」を受け入れることは欠かせない。そして、スウェーデン、ブータンがリスクを受け入れている結果が幸福度の高い国として成立していることから、両国を参考に日本における「リスクと恩恵」の向き合い方について提案していく。
リスクと恩恵は多様な場面で当てはめられ、自然と都会の場面であれば、自然とつながる取り組みがあったり、途上国と先進国の関係であれば、フェアトレードという形で関係性を伝えていたりと、リスクを受け入れるアプローチが見られる。しかし、やはり「生」だけでしかなく、最たるリスクである「死」を受け入れる取り組みはあまり見られない。したがって、「死」を受け入れない間は、依然として机上の空論で終わるだろう。つまり、幸福には行きつかないと考えられる。
そこで、「死」を個人として、社会として受け入れるために、日本においても「共同墓地」の普及を提案する。3章で述べた通り、スウェーデン、ブータンと共通する死生観を持ち合わせていることから、共同墓地の普及は日本においても実現可能性が高い。そして、日本における共同墓地がもたらす影響としては大きく2つが考えられる。
1つは、新たな墓文化の形成である。3章で「墓終い」の流れが見られる原因として、墓の土地不足問題が深刻化していることと無縁仏の問題があると論じた。共同墓地の普及が土地不足問題や後継者問題を解決できることを証明しているのがスウェーデンをはじめとするヨーロッパの国々であったことから、日本においても「墓終い」問題の解決につながるのではないだろうか。また日本においても、ブータンのように自然に還る「自然葬」という流れも見られるのだが、チベット仏教における輪廻転生が前提の仕組みであるため、宗教観が薄い日本においての可能性は未知である。その点で、共同墓地の方が日本において、お墓という形は継続していくことから実現可能性が高いと言えるのではないだろうか。
2つ目は、共同性の再創出である。共同墓地は共同性と匿名性の特徴を持つ。日本においても、死後の共同性、匿名性を共同墓地が意識させることで、スウェーデンやブータンのような緩やかな共同体を創出させることができる。緩やかな共同体においては、「私的な死」が共同体の繋ぎ役を担うため、現在の日本で見られる「公的な死の拡大と私的な死の先鋭化」を解決することに繋がると考えられる。したがって、日本においても共同墓地は「死」を介して、共同性をもたらす可能性が高いと言えるのではないだろうか。
以上のことから日本における共同墓地の普及は具体的に大きく2つの影響をもたらすと考えることができる。共同墓地の普及は結果として、「死」を受け入れる社会、すなわち幸福な社会へと導いてくれるのではないだろうか。
3節:日本における共同墓地の実例
さて、現在の日本においても実際に共同墓地の普及の流れが少しずつ見られるようになってきている。大きな供養塔の内部にたくさんの遺骨を納める合祀型が主流であるようだ。しかし、ただの大きなお墓といった印象で、現在のような共同墓地を普及させたとしても「死」に対する捉え方は依然として変わらないと考えられる。これからの日本においては、大きなお墓のような共同墓地ではなく、スウェーデン型のようなお墓らしくない共同墓地が必要なのである。スウェーデン型の共同墓地には自然との距離が近く、墓標を持たないという特徴がある。その特徴を兼ね備えているものが日本においても存在する。例として挙げると、岩手県陸前高田市に所在する「高田松原津波復興祈念公園」である。
高田松原津波復興祈念公園は正確には共同墓地ではなく、東日本大震災の記憶と教訓を国内外に発信している施設と、復興の象徴である“奇跡の一本松”などが保存されている「復興祈念公園」が整備されている。公園の内部は、広田湾や、気仙川、囲まれた山々など東北の壮大な自然を感じられ、自然の美しさを伝える反面、自然の脅威の伝えており、まさに「リスクと恩恵」を体現している。さらにこの復興祈念公園は、復興だけでなく鎮魂、慰霊という役割も持ち合わせている。実際に亡くなられた被災者への献花台のある追悼の広場が備わっている。しかし、ただの献花台ではなく、自然の中の献花台という形であったため、お墓のように忌避されるような印象はなく、どこか暖かい雰囲気が漂っている。たくさんの被災者が亡くなられた上に、この公園があり、自分がその場に立っていることを思わせる。「死」を感じさせるが、私的な死のように自身にのしかかるわけでもなく、公的な死のように無関心にはならなかった。これは共同性、匿名性を持つ美しい東北の自然が「死」を和らげていたようにも思われる。以上のことからこの公園は復興の象徴としての自然公園と資料館という傍ら、たくさんの亡くなられた被災者への慰霊の場としての共同墓地の役割を果たしていたと考察している。
したがって、合祀型のようなお墓の共同墓地ではなくこの「高田松原津波復興祈念公園」のような、皆が集う柔らかな居場所でもあり、死者の供養の場所の側面も持つような公園型の共同墓地こそが日本に必要であると考えられる。供養の場所でもあり、人々の居場所としての役割を担っている場所は他にも多々存在し、例えば広島県における「平和祈念公園」も同じような意味合いを持つと考えられる。平和記念公園においても、正確には共同墓地ではないが、原子爆弾の惨劇というたくさんの「死」を伝える慰霊、鎮魂の役割の一方で、復興の象徴として広島の主要な観光地にもなっており、広島県民のみならず、国内外の人々をつなぐ場となっている。祈念公園は復興、成長のための象徴として扱われることが多いが、慰霊、鎮魂という意味合いも非常に大きい。
以上のことから、これらの性質も持つ場所は自然公園や観光地として、人々に「死」を伝えつつも、共同墓地のような形で我々に緩やかな繋がりを与えてくれている。しかし、大きな規模でなくともよい。あくまでも「高田松原津波復興祈念公園」のような性質をもった共同墓地を普及していくことが重要である。これからの日本において、社会の中で「死」と共存するには、「私的な死」を和らげ、緩やかな共同体を作ってくれるような共同墓地が必要であると考えられる。
本論文では、現在の日本における幸福度の低さの問題を、「養生」、「死生観」の観点から分析してきた。我々人間はこの世に「生」を受けた瞬間から、「死」に向かって人生を歩んでいく。「死」は時に我々を苦しめ、悲劇となって襲う。しかし、「死」という人生の終わりがあるからこそ、「生」が輝く。そして、「生」が輝くことで幸福に繋がる。それらの事実はスウェーデン、ブータン、そして「養生」の時代の日本が証明している。日本が幸福になるためには日本を蝕む量的思考の「健康」を葬り去り、「死」を受け入れる必要がある。共同墓地の普及はあくまでもきっかけの1つでしかない。これからも引き続き「死」を遠ざけて生きるのか、あるいは「死」を享受するのか。答えは明確ではないだろうか。本論文が改めて「死」について向き合うきっかけとなることを願う。
最期に
これから、AIの発達や、グローバル化、情報化の促進により社会はさらに大きく変化していく。そして、2030年~2050年の間に人工知能、AIの発達により“シンギュラリティ”が起こると予想されている。“シンギュラリティ”とは、英語で特異点と意味され、AIが人類の知能を凌駕するような時代はそう遠くないのかもしれない。
AIの発展は間違いなく、私たち人類の死生観に影響を与える。2014年にアメリカで公開されたSF映画『トランセンデンス』では、研究者である主人公の死後、その主人公の生前の記憶をビッグデータに保存し、AIが死後もなお、仮想空間の中で生きることを可能とした内容を描いている。作中ではAIが次第に自我を失い、暴走し、人間を破滅に追いやるというシーンがあり、今後のAI時代の恐るべき未来を描いた。
未来のことは断定できない。しかし、この映画のように死後もAIの中で人間が生きることができてしまうと、「不死」が実現できてしまう。「死」や「老い」を遠ざけた未来はもしかすると「不死」に行きつくのかもしれない。したがって、「死」という概念すらもなくなってしまうことも考えられる。
「死」は共同性を持つものであり、共同体として成立するには欠かせない存在であり、幸福の根底にあるものだと論じてきた。もし「死」が存在しなければ、更なる個人化が進むことは確実だ。「死」を遠ざけ、AIの中での「不死」を得た先に果たして、幸福は存在するのだろうか。また日本の「先祖」、スウェーデンの「共同墓地」や、ブータンの「自然」などの「共同性」、「匿名性」を持った存在は、AIが管理する「ビッグデータ」、「クラウド」に移り変わってしまうのだろうか。「死」の在り方はまさに幸福の在り方を問いかけている。AI時代においても「死」の問題は避けられない。むしろ、より「死」について考える必要があるのではないだろうか。
このまま「死」を遠ざけ、不死が可能なAIの中で新たな共同体を形成し、生きていく量的な人生を目指すのか。あるいは「死」を受け入れて、リアルな世界での共同体で生きていく質的な人生を目指すのか。
現在、我々人類は、その選択の大きな岐路に立たされている。そして、その選択を真っ先に突き付けられるのは、この「死」を遠ざける日本であるかもしれない。
引用・参考文献一覧
・石丸昌彦 山崎浩司 中山健夫 井出訓 井上洋士 高橋祥友 (2014)『死生学入門』放送大学教育振興会 p.10,13
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・田中優子 辻信一(2012)『降りる思想 江戸・ブータンに学ぶ』大月書店 p5,15
・北澤一利(2003)『健康ブームを読み解く』青弓社 p.61
・北澤一利(2000)『「健康」の日本史』 平凡社 p.151
・西平直(2021)『養生の思想』 春秋社 p.3
・本林靖久(2006)『ブータンと幸福論 宗教文化と儀礼』法藏館 p.75,144,145,146
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・World Happiness report2019
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・World Happiness report2020
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・総務省統計局 1、高齢者の人口
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卒論を終えて
以上が僕の大学生活の集大成となる卒業論文でした。この「死」というテーマに行きついたのは大学1回生のころの祖父の死、同級生の死が大きく影響していました。
もちろん、「死」って悲しいもの、不吉なものであることは確か。
でもその2人の「死」が暖かいものであり、人々を繋げる役割を担っていたことを鮮明に覚えている。
車の保険や火災保険、防災訓練など、確実に起こりえないものに対して人々は常に意識を向ける。しかし、この世で絶対に誰しもに訪れる「死」について考えることはしない。
「死」を恐れて生きるのではなくて、「死」というものをきちんと知る努力をし(とはいえ経験できないものなのであくまでも空想だが)、「死」を受け入れて生きることで、「生」が充実するのではないかと考えています。
現に、幸福な国々では幸福と「死」、さらには共同体と「死」など関連性が見られた。
我々日本人は宗教観がないからこそ、「死」に対する見方が分からない。
だからこそ、少しでも理解すべきであると考え、この卒業論文を執筆することを決めました。
綺麗なものばかりではなくて、反対のものも現実には存在する。
全てを受け入れて生きることが必要であると考えます。
「死」に向かって、今日も「生」を全うする。
本論文が多くの人々の幸福に繋がることを願います。
2022年2月3日 川口裕登