頑張れるだけ。自分が持つまで。
今年の4月に入社してから、もう半年が過ぎた。
2022年下期に入った先日、とうとう僕に限界が来てしまった。
僕の口からとうとう、この言葉が出てしまった。
事の原因はもちろんこの不器用人間の僕が発端だったが、
あまりにもタイミングが悪すぎた。
先日、友人の結婚式に出席するために少しばかり大阪に帰省していた。
久しぶりに実家に帰り、母親と近況の話をしていたのだが、
大阪に帰ったことへの安心感や最近抱えていた生きづらさへのフラストレーションのせいか、気づけばどんどん涙があふれていた。
自分のあまりの不器用さに対する情けなさ、
自分のやりたいことに対する現状など、
もう僕はこの仕事を頑張ろうと思えなくなっていた。
そんな僕に母親は否定するわけでもなく、頑張れるだけ頑張って、
ダメなら帰ってきて、自分のしたいことに向けてやったらいいじゃないと
温かい声をかけてくれた。
そう言われるともう少しばかり、頑張ってみようかなと
やっとの思いで大阪から横浜に戻ってきた。
実際、こっちでの生活は辛いどころかむしろ楽しいし、
仕事自体が楽しくないわけではない。
ただ、自分のやりたいことへの欲望と、不器用人間が許されない社会人として扱われ方が自分を苦しめていた。
そして、僕は仕事でまた不器用をしでかしてしまう。
このままお前はこの仕事をやっていく気はあるのか?
社会人として、終わっているぞ。
どうなんだと怒られてしまった。
そこで、「続けます!」と即答できない自分がいた。
もういいや、この社会で適合できないなら、もうあきらめよう。
そして、冒頭のあの言葉が出てきてしまった。
結論から言うと、僕は踏みとどまった。
いや、踏みとどまらせられた。笑
本当にこの会社はバカだ。
こんな不器用な新卒なんか、見捨てればいいのに。
むしろ、期待しているからもっと頑張ってほしい。
もっと仕事で結果を残してから、海外に行けと。
自分でも勢い余って、口に出してしまった部分もあったので、
部長にうまく言いくるめられてしまった。笑
といった事件があったわけです。
でも今回の件があったおかげで、また改めて自分と向き合えた気がする。
こんなにも自分はやりたいことへの欲望が強かったんだ。
周りにこんな不器用人間を受け入れてくれて、応援してくれる人がたくさんいるんだと。
また改めて、「生きる」とはどういうことなんだろうと考えた。
今は社会人になり、一人で生活をしているわけだが、
まだまだ「自立」できていない未熟者だった。
大阪から離れて何とかやっていくことが「自立」ではなく、
会社員として、会社から「守られている」立場でもあるのだと気づかされた。
自分でもう何かを始めようかと思った。
しかし、この守られているメリットも少なからずバカにはできない。
無論、社会人の先輩方はこの大きな会社にいることのメリット、守られていることのメリットについてはたくさん話してくれた。
でも「守られている」うちは僕はまだ何もできない。
悪い言い方をすれば、会社の奴隷でもあるからだ。
しかし、「守られている」現状のメリットを手放すほどの状況であることも確かだからだ。
だから、色んな意味でまだやめるには「時期尚早」だという結論に至った。しかし、頑張れるだけ。自分が持つまで。
本当に食べていくためだけのために仕事をしていけばいいのか。
もちろん、そういった人もいるだろう。
矛盾を抱えて生きるほどの器用さは残念ながら持ち合わせていない。
でも本当に食べていくことができれば、
それは「生きる」ということなのか。
自分らしく「生きる」とはどういうことなのか。
もう少し色んなものに「守られながら」、
世界への憧れ、自分のやりたいことに対して憧れながら
このことについて考えてみようと思う。
頑張れるだけ。自分が持つまで。