見出し画像

長崎ミルクセーキの教訓

老舗の甘味処のミルクセーキが「食べたい」と長崎へ。もちろん、そうそう旅行をしている場合でもなく、先にnoteしました「富士男の卵サンド」が目的の長崎旅と同じ2泊3日内の出来事です。

で、もうこれを書いてしまえば、この回の文章は終わったも同然なのですが、何年か前に初めて口にした衝撃の旨さが忘れられず、あれほど恋焦がれてきたミルクセーキが念願叶ってやっとまた口にできたのに、おや? と首を傾げたくなるくらい感動が薄いではありませんか。あ、いや、たぶん美味しさ自体に変化はないものと思われます。要は勝手に膨らんだ期待が実際をはるかに追い越した結果、どうしようもない落差が生じたということかと。悪いのは僕。長崎ミルクセーキになんら落ち度はありせん。

実は緑内障を悪くしてからというもの、特に手術した2020年以降は、この「長崎ミルクセーキ効果」に似た感覚を大なり小なり毎日覚えてきた、と言って過言ではありません。見えないわけではなく見えにくいだけなのですが、僕の場合、一番の問題はこの見えにくさになかなか慣れないこと。「手術」から3年経っていますので、正直、慣れないにもほどがあんだろがあ、という困った状況です。

結果、ついこないだも高校の同級生と吉祥寺駅前で真っ昼間から飲んだのですが、天井の照明が明るすぎて、楽しいはずの昼飲みが楽しさ半減に。なんとなれば、旧友の表情が露出過多でまるで白けちゃって見えにくいということが気になって仕方がない。かと思うと、また別の日は、仕事上のトラブル発生で対応に急きょ、とあるコーヒーチェーンのお店で人と会ったのですが、さして内装や照明に配慮したお店にも思えなかったのです。入った瞬間、「ここはダメそうだなあ」と思ったのが、いざ打ち合わせする段になると、それはそれは相手の表情が手にとるように実によく見える。で、これはこれで(嬉しくて)会話の内容に集中できなかったりするのです。予想、期待と実際の落差、すなわち「長崎ミルクセーキ効果」にいまをもって慣れません。

ただ最近はそれら「落差」を違和感と捉えるのではなく、アハ感*と理解するよう、そういった科学者的態度(?)は多少なりとも身につき始めています。

*アハ感:  「アハ体験」の言い換え。アハ体験とは、カール・ビューラー(独・心理学者)の提唱する、未知の物事を瞬時に認識すること。

昨日の午後は、札幌から「論文指導」を非常勤で持っている学生(といっても50過ぎのオッサン)とその娘さんと吉祥寺駅のみどりの窓口で待ち合わせ。「娘さん」が日芸の「文芸学科」に合格を果たし、昨日から東京生活を始めたというのです。「オッサン」は重量荷物運搬要員、およびベッド・本棚等組立要員として札幌から送り込まれたのですが、第一希望の学校に入れた娘さんともども、いまこの大変さを謳歌しているようで、その感情の機微は実際の目……というより、心の目でよーく見えました。

待ち合わせの後、我が家で小宴を催したのですが、時間かあれば、いまが桜が盛りの井の頭公園も二人に見せてあげられたら、と行きに下見だけは済ませておいたのです(荷解きの疲労感が隠せない二人を見て、「花見」は即刻中止にしましたが)。

果たして、井の頭公園の桜もきれいはきれい。しかしながら、群生する桜の木々の合間あいまで、派手さこそないものの大ぶりの白い花を一斉に咲かせ屹然と立つコブシのなんと清々しいこと。「春は桜」の期待を見事に裏切って、(僕を含む)その辺の人々にアハ体験を降り注いでおりました。


いいなと思ったら応援しよう!