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大学教授と結婚

おめでたい話ではあるのですが、耳に届くとなんかモヤモヤすることのひとつに、同僚教員や他大学の先生の「元ゼミ生との結婚」があります。

決して多くはないのですが、何年かに一度、そんな話を直接、間接に聞くたび、結果オーライと言えばそれまでですが、下手すると訴訟沙汰にもなりかねない、かなり際どい恋愛であり、危うい結婚であるなあ、と思うのです。

そもそも、「大学教授の結婚」は大きくは3種類、というのが僕の見立てです。すなわち、

①論壇の恋……からの結婚
②縁談の恋……からの結婚
③禁断の恋……からの結婚

の3パダーン……あ、いや3パターン。例えば、「元ゼミ生との結婚」などは、いかにも③の「禁断の恋」、「禁断の結婚」の臭いがそこはかとなく漂ってきます。ここでは、まずは、なぜ大学教員の結婚はこれらダン、ダン、ダンに収斂しがちなのかを考え、最後に「元ゼミ生」問題に触れてみたいと思います。

まず、前提としてあるのは、大学教員の生活圏、活動領域は概して狭い、ということです。

多くの先生たちが、なんだかんだいって学部卒業後の10年前後を「院生」という社会的にも経済的にもフラジャイルな立場のまま足踏みを余儀なくされ、結果、社会は狭いわ、社交するにもカネはないわ……というトホホな状況にとどめ置かれてしまうのです。

「あの頃はないない尽くしながら、あれはあれで楽しかったな」

と院生時代を美化せずには振り返れない人たちが一群いますが、それは、いまや身の周りに一通りのモノに溢れ、他にも欲しいと思えばお金で買える現在の境遇があればこそ。アラジンの魔法のランプをこすってみたら、魔神が現れて、

「若くてなんにもないのと、若くはないけどなんでもあるの、あんたが欲しいのはどっちだい?」

と訊かれれば、僕は迷わず、

「若くてなんでもあるの!」

と答えることでしょう。事実、若い頃の僕は——研究者志望でもなんでもなかったものですから——それこそがむしゃらに働いて、ひとまずはカネと結婚相手とを先に手に入れました(あ、月並みな結婚でして、残念ながらダン、ダン、ダンとはいかなかったのですが)。

しかしながら、「がむしゃら」に研究をやればやるほど損失発生的な若い研究者の恋愛事情、結婚事情を鑑みれば、選択肢はかなり限定的です。

すなわち、就職を待たずに、イットー身近な、研究上の伴走者、あるいは競争者と恋愛、結婚する(=①論壇の恋、結婚)か、30になろうとも40になろうとも、まずは就職が成就してから、他人任せの良縁を待つ(=②縁談の恋、結婚)かの二択です。

①の「論壇の恋、結婚」と言えば、フランスのサルトルとボーヴォワールの「契約結婚」なんかが真っ先に想起されますが、ここでは、二人が互いの価値観を認め合ったり、意見を戦わせたりすることだけを想定してはいません。

例えば、妻が夜型で夜中から明け方にかけてひたすら論文を書く。夫は夫で朝型で、早朝、妻と入れ代わりにベッドからむくっと起き本を読むようなすれ違いの生活パダーン……あ、いや生活パターンがデフォルトであるような場合、個々の仕事や関心事が常に優先され、日々の生活の中でお互いの思いやりやサポートはあまり多くは期待できないかもしれません。

それが理由でむしろ上手くいっている関係性も、それが原因でやがて離別に至る関係性もあるのは他の業界に同じですが、なんせ大学教員のリクルーティングは、公募による専門性とタイミングがすべて。地域限定等のわがままはあまり聞き入れてはもらえません。

結果的に、夫が北海道で妻が沖縄などという極端なケースもままあるわけです。それが、若い子育てカップルのような場合、アクロバティックな生活様式を強いられがちです。畢竟、論壇の恋、結婚が上手くいくのかいかないのかはケース・バイ・ケース。こればかりはやってみないことには分かりません。

対する、②の「縁談の恋、結婚」派は——手許にデータがあるわけでもなんでもないのですが——これまた、アカデミアにおける一大勢力です。

例えば、地方の中核大学などに赴任しようものなら、「大学教授」はちょっとしたご当地ブランド。地元の素封家のお嬢さんやミス富山、ミス・サクランボ山形(あくまでも空想上のアイコンです!)などの釣書(身上書)が五万と届くことでしょう。

問題は、しかし、「大学教授」はそのハッタリの利く響ききほどには実入がよくない(特に若い時分は……)ことも。それも織り込み済みならいいのですが、親娘ともども「聞いてないよお……」の反応だったような場合が若干、憂慮されます。

このようなケースで「奥様」のよくある行動パターンとしては、A、子どもともども、しょっちゅう実家に入り浸る。あるいは、B、泊まりで大都市圏での(タカラヅカなどの)推し活に励む、かの二択です。当の教員本人はふと我に返れば、3食コンビニ弁当ということも。これでは院生時代と大差ないことにはたと思い至るわけです。

②の「縁談の恋、結婚」の対極にあり、とかく大学教員の陥りがちな罠と言えるのが、③の「禁断の恋、結婚」のパダーンであります。

もっとも、それこそボーヴォワールの『第二の性』ではありませんが、

「ヒトは女性に生まれるのではない。(自ら選びとって)女性になるのだ」

であり、ここでは、セクハラやアカハラの観点から、強い立場=(性別を問わず)大学教授と弱い立場=学生との間の「道ならぬ恋」をとやかくいうつもりはありません。

事実としては、教師と学生が恋に落ちる蓋然性はゼロとは言えないとして、ここではなぜそれが社会的には禁忌なのか、で、禁忌、禁断のそれがひとたび公になってしまったときに、

「我々結婚しますもん。これなら文句ないっしょ?」(北海道弁)

になぜ僕がモヤモヤ感を禁じ得ないのかに少しだけ、触れておきたいと思います。

このたび、晴れて第102代総理大臣となった自民党の石破茂さんが奥様の佳子さんと親しくなったのは、二人がともに慶大生だった頃、石破青年が立ち上げた(テスト問題の)「石破の山カケ講座」だったとか。このことが、微笑ましいエピソードとしていまに語り継がれるのは、いくら石破が「山カケ講座」の主宰者だったとはいえ、学生同士、二人が対等な立場であったから。仮にこれが、「石破ゼミ」の先生と学生だったとしたら、「微笑ましい」どころか、「あれ?」と石破のいかにも堅物そうな印象が良くも悪くも塗り替えられてしまいそうです。

フランスのマクロン大統領が妻のブリジットさんと出会ったのはマクロン大統領が16歳のとき。このときブリジットさんはマクロンが入学した高校のフランス語(=国語)の教師であり、24歳年上の既婚者でした。もちろん、二人が結婚に至るのは、それからさらに10年ほど経った、大統領が「高校卒業後」の出来事ですが、この二人の情熱的な出会いと果敢な結婚は、いまもフランス社会の嘲笑とバッシングの的です。

考えてみれば、愛にはさまざまなかたちがあり、茂・佳子の出会いも素敵ですし、エマニュエル・ブリジットのそれも最高! なのに、僕がなぜこと「大学教員と元ゼミ生」にモヤるのかは、次のような考え方に依拠します。

そもそも「ゼミ」という数名から最大でも数十名からなる学習サークルが、モテない、持たないの長く、苦しい院生時代をやり過ごした大学教員のリベンジ恋愛の草刈り場になってはいまいか、ということ。ときには教室を飛び出して、河原でのBBQや、避暑地でのゼミ合宿もあるでしょう。そんなインフォーマルな場面も含めて,教員は学生の公共財であることを常に自覚すべき。でないと、学生はおちおち心を開いて相談のひとつもできません。

その辺の自己制御に自信がないのなら、予めシラバスに、

「学生の分け隔てあり。下心ありあり」

とでも、ゴチックではっきりと明記すべきです。この原初的な大原則の確認の上に、それでも立場や年齢を超えて、恋愛感情や結婚願望の入り込む余地はやはりある! と認めたい。その上で、「たとえ相手が元ゼミ生であれ、結婚したのなら結果オーライ」がダメダメなのは、次のような理由からです。

相手が男性であれ、女性であれ、在学中に恋心を抱くのは詮ないこととして、お手つきは「禁断の恋」。なぜなら、対象者以外の学生にしてみれば、それはフェアではないから。

また、「禁断の恋」の結果、卒業を待って結婚するようなことも(レトリックとしては)「禁断の結婚」ではあるけれど、やはりこれは結果オーライ。第三者的には、「それはぎりぎりセーフだよね」という案件かもしれません。ただ、当の本人たちの、

「僕は(私は)結婚したんだから結果オーライでしょ?」

という態度は、これは開き直り以外のナニモノでもありません。あなた方は、「禁断の恋……からの結婚」をなし得た者同士として、無駄に開き直ることなく、一生日影の身でいてください。

そうして、「日影の身」同士、キャンパスでの淡い恋、後ろめたい情愛、そして、隘路のような結婚に至る困難な道程を二人だけは共有し得るプライドとして、互いから決して目を逸らすことなく添い遂げ、必ずや幸せになってください、と言いたい。

ダン、ダン、ダン……色々ありますが、個人的には大学教授の「禁断の恋……からの結婚」に幸あれ! と願わずにはいられません。

※本note上、「大学教授と——」シリーズの既存の記事には以下もあります。よろしければ。

大学教授と就活
大学教授と旧姓使用
大学教授と結婚
大学教授と内職
大学教授と研究室
大学教授と定年制

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