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大学教授と内職

もうずいぶんと昔の話になりますが、ほぼ趣味で通っていた大学院の先生(すでに鬼籍に入られた政治学者の新藤宗幸先生)から、ある日突然ケータイにお電話をいただきました。

「島根と札幌の2つの大学からあんたに興味があると言ってきてるけど、もちろん、問題ないよな?」

この「問題ないよな?」が、いずれの大学かで採用が本決まりとなったようなときも、東京を離れることに(家族も含めて)異存はないよな、の意であること、僕にもすぐ理解できました。なので、「ええ、もちろん」とだけ答えれば良いものを、

「もちろんです。ただ……島根と札幌なら、どちらかといえば札幌の方がいいな」

と、可能な限り可愛く言ったつもりでしたが、これが、もう余計な一言でした。

「バカ野郎! お前みたいなのに手を挙げてくれてる学校が現れただけでも有り難いと思え。つべこべ言わず、先に決まった方に行け!」

と、ただでさえ怒りっぽい先生の、よりによって堪忍袋のド真ん中を竹槍でひと突きしてしまった模様です。

もっとも、新藤先生が怒るのも無理もありません。30代も後半も後半の社会人院生の僕ごときに、2つもの大学が食指を動かしてくれているのは先生の売り込みがあればこそ。世間には(博士号取得後も常勤の研究職に就けないでいる)ポスドクのみなさんが少なくないなかで、博論もまだ生煮えの僕なんぞにはもったいないお話が、しかも、ダブルで舞い込んでいるわけですから、こちらから条件を付すような立場には一切ありません。

ただ、こちらにはこちらの事情というものもあるわけでして。

なかんずく、この年齢で、例えば専任といえども「講師」から始まるとなると、下手をすると年収がいまの半分になるやもしれません。であるならば、テレビの台本書きの仕事も一部続けて、当面はダブルインカムを狙えればだいぶ助かるな、と。それには、東京にも通い易い札幌の方がだいぶ楽かな……といった身勝手な皮算用が咄嗟に働いたのでありました。

もっとも、99年4月に、神様への願い通じて札幌の北海学園大学法学部に着任してみれば、当時、学部長だった山本佐門先生に開口一番言われたものです。

「今回、縁あって素晴らしい人材をお迎えできたと大変喜んでいます。異色のご経歴も新しい法学部づくりにきっと役立つときが来ると確信してるんです。なので、テレビ(脚本)の内職などゆめゆめお考えなきように」

まったくもって、あちゃー、でありました。佐門先生には僕の奸計なんぞは初めからお見通し。かくなる上は、本学および札幌にどっしりと腰を据えて、研究者の本分である「良い論文を世に問う」に専心するように、とぴしゃり釘を刺された格好です。

以来、3年前に同大を「早期定年退職」するまで、テレビ台本の仕事は一切受けていません(もっとも、去る者は日々に疎し。流れの速い放送界にあって、僕の居場所などあっという間に誰かに奪われた、というのが実際かと思いますが)。

かくして、故山本佐門先生の戒めは、これはこれで厳格に守り切ったのですが、ならば「内職」の類いは一切やらないで来たかといえば、これはまた違う話。

実際、「大学教授」という仕事ほど内職機会に満ち満ちた職業を僕は他に知りません。というか、極論すれば、大学教授という仕事のダイナミズムを支えているのは、実はさまざまな内職的なる営みにある、とまで思っています。

そもそも、本務としての「大学教授」からして、その仕事内容は意外と雑多です。それらは、

①研究
②教育
③諸雑務(これを気取って「学内行政」と呼ぶことも)

の3つに大別できようかと思います。内、③の「諸雑務」がなかなかにクセモノでして、入試や学生の就職などを担う各種委員会の委員の仕事はもとより、果ては出前講義の講師役やオープンキャンパスの来場者の対応まで、言ってみれば、大学教員は本来業務らしきものの中に、種々の内職的なる諸要素が埋め込まれているかのよう。

はるか昔の記憶ですが、とある東京の私大の大学受験会場で、かねてからご著書を耽読してきた高名な老経済学者の先生が試験監督員の、それも下っ端のお一人だったのにびっくり。僕がたびたびお顔をチラ見するものですからよくぞカンニングを疑われなかったものだと思いますが、あのテレビでもよくお見かけする強面の論客感を微塵も見せずに、「兵隊」に徹しておられたわけです。

考えてみれば、あれは糊口をしのぐ仮のお姿。猫の手も借りたいような入試の現場で、「本来業務」に勤しんでおられたのだな、といまなら理解できます(当該大学を落ちたのも同「老経済学者」のせいなどと恨んでもおりません)。

さて、やっと本題の「大学教授の内職」問題ですが、これには大手を振ってやる「ドヤ内職」(ドヤ顔内職)と、どちらかといえば控え目にやる「内内職」(内緒の内職?)の2つに大別できましょう。

ドヤ内職の代表格は、なんといっても「他大学の非常勤」です。そもそもひとつの大学の自前の教員には数にも専門性にも限りがあることから、いかなる大学も、地域、地域の大学間で教育資源としての人材を「非常勤講師」として融通し合っています。言葉を換えれば、いかなる大学も、他大学やフリーランスの非常勤の先生の応援なしには教育カリキュラムを遂行することができないのです。

例えば、僕の場合、本務校の北海学園大学では「公共政策論」を担当していましたが、非常勤先の北海道大学では「非営利組織(NPO)論」を長く担当してきました。これ、すなわち、本務校では概論的な入門科目を担当しつつ、内職先では、より専門性に寄せたテーマを扱えたわけで、僕の中では本務と内職が良い塩梅に相互補完されていました。もっとも、果たしてそれぞれの大学の顧客満足度のほどは……。

さて、これが「内々職」となりますと、人によって実に千差万別。そもそも、内々の内職なものですから、その許諾が教授会に諮られることもほとんどありません。畢竟、その実態は杳として知れません。

ただ、「美味しい内々職」としては、やはりベストセラー狙いに勝るものはないのかも。「大学教授」の肩書きゆえに、出版のハードルもぐっと下がる上に、仮に書き殴ったような内容スカスカのとんでも本でも、なんだかんだ職名や大学名が販促のフックにはなるんだな、といったケースも散見されます。

子どもの頃ハマった多湖輝先生(千葉大学)の『頭の体操』は、1966年の発売以来、シリーズ累計販売部数が1200万部を超えるのだとか。本務の千葉大からのお給料なんか封も切らずに国庫に返納されていたんじゃないかとさえ邪推したくなりますが、心理学をあそこまで面白おかしく噛み砕ける才能とファーストペンギンぶりにはやはり脱帽です。

「内内職本」が人気を博した結果、著者名も売れ、本職の研究書もコンスタントに出版されるという相乗効果が狙えるケースも珍しくありません。

『大学教授になる方法』(1991年)がベストセラーになった鷲田小彌太先生(札幌大学)はご専門の哲学書も面白いという稀有な存在で、札幌赴任に先んじて著者「鷲田小彌太」の存在を存じ上げていたものですから、「僕も(同じ札幌なら)就職先が札幌大学だったら良かったのに……」と幾度となく思ったものです。

再び、法学部長の山本佐門先生の思い出。僕が鷲田小彌太ファンと知るなり、佐門先生、

「ダメダメ。研究者は研究が本分。あちらを真似ては絶対にダメ」

とも釘を刺されたことが。僕が鷲田小彌太本の熱心な読者であることを公言しなくなったのには、実はそんな経緯もありました。

味わい深い同氏の著作物のなかでも、『過疎地で快適に暮らす。』は、僕の北海道移住のバイブルでありました。

著者ご自身の「長沼町入植」の実践の日々が生き生きと描かれた同書ですが、札幌大学のお隣りの北海学園大学に就職できた僕は、札幌生活13年目にして、同書に倣って洞爺湖からほど近い伊達市郊外の集落への移住を果たしています。

とはいえ、その後、10年足らずで東京に舞い戻った自身の不甲斐なさを恥じていたのですが、つい先日、Wikipediaで鷲田先生も2017年に「山を降り、郷里厚別(札幌市)に戻」られたことを知り、わけもなく、なんだかほっとしています。

大学教授の内々職としては、今後、YouTuberや企業の社外取締役辺りが脚光の中心かと思いつつも、やはり最低限「書くこと」にスティックする、というのがお行儀の良さではないかと(あ、これ、まったくの私見です)。

研究と教育のみならず、ドヤ内職、内内職までウイングを広げると、実に多様な生き方、仕事の仕方を自らの意思でデザインも、実践もできる、それが大学教授という生業の醍醐味の一部であることは間違いありません。


※本note上、「大学教授と——」シリーズの既存の記事には以下もあります。よろしければ。

大学教授と就活
大学教授と旧姓使用
大学教授と結婚
大学教授と内職
大学教授と研究室
大学教授と定年制

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