真夜中の北大の森を抜けて
夕方5時から北大のC先生の研究室で部屋飲み。今年も僕の前期の授業が終わったこのタイミングでの「お疲れさん会」という有り難い趣向だが、疲労とも功労とも無縁の主役がそこにいた。
とまれ、過去の院生、今年の院生、それに来年の院生(?)が入れ代わり参加してくれたりで嬉しかったし、楽しかった。
さて、参加者のなかには札幌駅最終23時59分発で恵庭に帰る先生もおられたのに、終わってみれば23時半。なんと6時間超も長居した計算だ。
途中、自分は果たして人生のどのステージに立っているのか——青春期か? 壮年期か? 老齢期か?——わけも分からない不思議な感覚に襲われる。そもそも下戸の自分、飲んだ酒の量など高が知れている(白ワインを2杯? 3杯?)。アルコールにヤラれたというよりは、学生たちの圧倒的な未来——いまはナニモノでもない、ゆえにこれからナニモノにもなれる!——にすっかりあてられた恰好だ。もっといえば、この場に及んでもナニモノかになりたい、ともがく往生際の悪い自分がいる。
C先生においとまの挨拶を済ますと、迷路のような研究棟を1階玄関までは「恵庭の先生」や元学生に誘導してもらったが、その先、屋外のお見送りは丁重に固辞した。後は真夜中の北大の森を抜け、ひたすら正門を目指すだけ。独りでもわけないと考えた。
ところどころに外灯こそあるが、僕の場合、緑内障もあって明るさ2割減といったところか。さすがに漆黒の闇……とまではいかないが、用心棒の一人や二人従えておいても悪くはなかった。後悔先に立たず、とはこのことである。
もっとも、北大で授業を持ってから10年ではきかない。この小径も何百回通ったことだろう(ただし、昼間のお天道さまの下で、ではあるが)。
右手の葉叢の向こうはクラーク像? すぐ左に見えるシルエットは木造の古河講堂に違いない。このまま道なりに進めば、ほどなく正門に至る。漠然とした不安がなんとなくの確信に変わったまさにそのとき、これと同じ、真夜中の森の迷宮の記憶がありありと脳裡に蘇った。あれは40年以上も前のこと、軽井沢でも早くに拓けた旧軽井沢別荘地での深夜の森の彷徨だった。
あのときの軽井沢は、とあるテレビのクイズ番組の制作スタッフの夏合宿だった。番組の、巨きな泉のごとき存在の司会者男性が、当時としては珍しく、夏にきっちり1ケ月バカンスを取るものだから、制作関係者は前倒しの収録で地獄を見るのが例年だった。なので、この「夏合宿」には一緒に死線を越えた者同士、お互いを慰労し合う、という裏テーマもあったかと思う。まだまだテレビが潤沢な制作費を享受していた時代のこと。予算的にも精神的にも何事にもおおらかで余裕があったように思う。それが証拠に、クイズ問題づくりの一介のバイト学生だった僕まで「ご招待」に与かり、滞在中は一円たりとも自分の財布から支出した記憶がない。
もっとも、宿泊は、番組のレギュラー回答者だった、学習院大学の篠沢秀夫教授の旧軽の別荘に雑魚寝。参加スタッフは20名はくだらなかったと思う。いわゆる貸布団屋から予め布団20組超を篠沢教授邸に運び込むのが伝統だった(もちろん、これも「ADさん」の大事な仕事である)。
昼の部は軽井沢乗馬倶楽部で乗馬体験(なぜかいた、ドリフターズの仲本工事さん所有の馬を使わせてもらった記憶が……)。
夜は夜で、老舗ホテル「万平ホテル」のメインダイニングで会食後は、同じく万平のバーで「比較的おとなしめ」の1次会。その場に、同じくレギュラー回答者の竹下景子さんも顔だけ出されたと記憶する(が、ここのところの記憶は、いまとなっては曖昧である)。
さて、万平のバーには、接遇係の女性数名がノースリーブの黒のワンピースで、客のオーダーを取ったり、カクテルを運んだりしていたのだが、僕を含む野郎4、5人のテーブルでは、余興で、じゃんけんで負けた者が、「女性数名」の内の一人に名前を聞き出す、が罰ゲームに。——長い話を短くすれば、いっとう負けた僕が、黒ワンピースの一人に話しかけたということだ。
20歳そこそこの僕からすれば、全員が年上のお姉さま。それでも、なかで一番若そうな一人に狙いを定めると、勇気を振り絞って「あの……お名前は?」とやった。同じテーブルの男たちは誰一人視線をくれないが、誰一人として聞き耳を立てない者もいない。
さて、あれから40年の歳月を経てみれば、肝心の「名前」が聞き出せたのかどうかはもとより、黒ワンピの女性との会話の細部を何ひとつちゃんとは覚えてはいない。ただ、斑らな記憶ながら、その女性が実は東京の大学生で、年齢も僕といくらも違わないこと、ひと夏丸々万平ホテルの寮に寝泊まりしながらバイトとして勤めていること、貯めたお金で長年の夢である海外留学に出たいと考えていること、そして、とはいえ、自由が極端に制限された「軽井沢の一夏」にそろそろ辟易してきていること……などを、屈託のない笑顔も一緒に正直に話してくれたのだった。
やがて、テーブル全員の男たちからの質問攻めにあうこととなった彼女を改めて眺めると、そのいくらか下ぶくれぎみの顔立ちも、切れ長の一重まぶたも、これはこれで可愛いな、と思った。
と、さすがにマネージャーの視線を感じたのか、そろそろ持ち場に戻らなきゃ、と僕ら全員に告げた彼女が、立ち去る間際に、僕の耳もとで、
「今夜11時に、ホテル正面の駐車場に来られますか? 助けて」
と、囁いたのをいまも昨日のことのように覚えている。僕が、声には出さず、うん、と頷いたときにはすでに背中の彼女だったと記憶する。
さて、篠沢教授邸に戻るなり、どんちゃん騒ぎの2次会。そのはちゃめちゃぶりの断片は、例えば、その何年か後に早逝されることとなるディレクターのYさんが、便所に座り込み、便器に頬ずりするようにして居眠りしておられる姿などとして、いまもスライドショーのように思い出しては笑いがこみ上げることがあるが、あのときの僕は気もそぞろ。何よりも「助けて」の彼女に心がすっかり支配されてしまっていた。
ふと腕時計を見やると指定の11時までいくらもない。トイレで酩酊状態のYさんを口実に、誰か彼かに、
「野糞して来ます」
とだけ告げると、半袖・短パン姿で篠沢教授邸を飛び出した僕。格式高い別荘が点在する森を抜けて一路、万平へ!
もっとも、当時の僕には、ケータイはもとより、旧軽の土地勘というものが一切なかったわけで……それでも、なんとか「万平の駐車場」に辿り着けたのは、直に日付けも変わろうかという時間。決して遠くはないハズの2点間の森を小1時間は彷徨っていたことになる。
さらに1時間はその駐車場に立ち尽くしてはみたものの、あれから40数年、ついぞ彼女とは会えずじまいである。
いまでは、その「下ぶくれ」ぎみの輪郭以外、何もかも思い出せないでいるが、あの「助けて」の意味するところは……数年に1度、ふと思いを馳せることがある。
職場と寮の往復だけの退屈な日々から助けて? 職場の先輩・同僚のイビリから助けて? 3万円でいいから助けて(用立てて)? 万平ホテルにたゆたうという生き霊の呪いから助けて? それとも、いまはまだナニモノでもない、でも、いつか必ずやナチモノにかになりたい自分の焦燥感からどうやったら解放されるのか……助けて?
一つ大きくクルマのクラクションが闇夜を劈いたかと思えば、北大正門は目の前。かくして、真夜中の北大の森の散歩はあっけない幕引きとなったのであった。
なんだか無性におしっこがしたい、と思った。が、その辺のセコマのトイレに駆け込もうものなら、そこは便器を抱えて居眠りするディレクターのYさんに占拠されていて使えない気がしてためらわれた。