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加藤金太郎アパートの戒め

三鷹台駅で電車を降り、井の頭線の踏切を渡り、立教女学院の坂を中ほどまで上ると、中華料理店の角を右折。すると、ほどなくして加藤金太郎アパートは左手に見えてくる。——記憶というよりは身についた習性だけを頼りに、先日、ほぼ40年ぶりに久我山の住宅街を歩いてみました。果たして、加藤金太郎アパートは当時のままそこにあるではないですか。「40年」の目立った変化と言えば、唯一、角の「中華料理店」が珈琲店に代わっていたことくらい。アパートがただただそこにあり続けてくれたことに感激でした。

20歳代前半の数年を「加藤金太郎アパート」に暮らしました。その造りは、一見すると「アパート」というよりは戸建住宅。それもそのハズでして、大家の加藤金太郎さんが自宅を新築される折、母屋と一体で1階に1部屋、2階に1部屋の計2部屋だけの「アパート部分」を設けられたのでした。

さて、テレビの台本作家としてまだ駆け出しだった僕はそもそもは加藤金太郎アパートの1階の住人でありました。1Kのその部屋は、典型的な単身者向け住居。手狭ながらも、入居時はまだ新築の匂い漂う清潔な部屋で大変気に入っていました。iPhoneで2、3枚外観の写真を撮った後、吉祥寺南町の高級住宅街をそぞろ歩きながら井の頭公園を抜けて現在の自宅に帰りましたが、いま一度住んでみたくなるほどの好立地だったな、と再認識したような次第です。

さて、2階部分の住人・ミヤモトさんと知り合いになれたのは、ミヤモトさんがギターを弾きながら床を踏み鳴らすその困った癖に抗議したためでした。あ、いや、その「困った癖」も何度かは我慢してやり過ごしたんです。何度目かに我慢も限界に達しまして、外階段をドサドサドサと駆け上がるや、ドドドンとノックする自分がおりました。結果、「はーい」とドアを開けたのは、満面に笑みを浮かべた、見るからの好人物、すなわちミヤモトさん。年齢も誤差の範囲でほぼ同じでした。後で分かったことに、職業もカメラマンという、当時の僕と同じような自由業系。以来、主には暇を持て余した夜などに、どちらからともなく声をかけあっては、相手を自室に呼び込み合う「上下付き合い」がそれなりの期間続いたのでありました。いまも、ミヤモトさんの彼女(後の奥様)も一緒に、夜更けまでバカ話に興じた日々が無性に懐かしく思えることがあります。

その後、加藤金太郎アパートの1階の住人から2階の住人にささやかな「出世」を果たし得たのは、ミヤモトさんが先に売れてアパートから一抜けしたからに他なりません。どんなに素敵なパーティーにも終わりは必ずあるものです。

1階から2階への引っ越しが、加藤金太郎さんとのどんな取り決めでなし得たのだか、いまとなってはその部分の記憶がすっぽりと抜け落ちているのですが、騒音の面からも眺望の面からも生活の「格上げ」をだいぶ期待したことは間違いありません。

もっとも、こちらもその頃には、テレビ台本の仕事もそれなりに増え忙しくなっていましたので、引っ越しの手間暇をいくらかでも軽減するべく、ひと月は1階・2階の両方を借りて、家財道具や本の類いを少しずつすこしずつ1階から2階へと移動することを目論んだわけです。結果、「目論見」は大失敗に終わります。そこは大変でも引越し業者か、友人たちか、あるいはその両方かを一度に呼んで1日での大引っ越し作戦を敢行すべきだったと後悔したのですが、後悔先に立たず、という話です。

それは、いわば引っ越し版のゲリラ戦のようなもので、やってもやってもなかなか戦局が見えないのです。本棚やベッドなどの重いもの、嵩張るものを運ぶときだけ友人たちの協力を仰ごうものなら、作業もそこそこに大宴会が井の頭線の始発が動き出すまで続く始末。すっかり疲労困憊で金縛りにまで遭いました。

もっとも、どんでん返しは最後の最後に待っていたのです。遅々として進まない引っ越しも、さすがに1階解約の期日までにはどうにか目鼻がつきまして、新居としてやっとかたちになった2階のシングルベッドの端に腰掛け、部屋全体を見渡して愕然とするのでした。

「1階となんも変わらないとはこれいかに……」

それもそのハズ。加藤金太郎さんはひたすら平等を旨とするお方でありまして、1階も2階も室内の仕様は瓜二つにまんま同じ。家具のレイアウトも部屋の縦横比が変わらない以上、寸分変えようがありません。さらには、窓から見える景色も(東京タワーや富士山が見えるわけじゃなし)五十歩百歩。贔屓目に見ても日当たりが若干良くなったかな、と言って言えないこともない程度です。苦節1ヶ月、失われし僕のあの時間が本当に悔やまれたものでした。

が、しかし、この経験から、その後の人生の折々で参照することとなる大切な教訓——「加藤金太郎アパートの戒め」——を得ることになるのですから、人生、何事も無駄はありません。それは、すなわち、

「人生、同じような場所には2度と引っ越さない」
そして、
「同じ引っ越しをするなら、景色や気持ちのガラリと変わる場所に!」

であります。

この場合、「引っ越し」はもちろんメタファーでもありまして、「転職」でも「投資」でも「恋愛」でも「挑戦」でも……なんとでも置換可能です。例えば[恋愛」なら、

「人生、いったん別れた人とは2度と恋愛関係に陥らない」
そして、
「同じ恋愛をするなら、タイプや性格のガラリと違う人と!」

といった具合です。——ここまで書いてしまうと、仮に空きが出ても2度と戻るわけにはいきませんが、加藤金太郎アパート、1年でいいのでもう1回住んでみたいような……。頭では分かっていながら同じ過ちを繰り返す、これもまた人間の一面であります。

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