ルイス・ポールセンは会社、ポール・ヘニングセンが人といま知って驚いた「照明通」は僕です
初めての欧州旅行は20代前半のイタリアでしたが、デザインの本場イタリアにも増して、帰路のトランジットで足留めを食らったコペンハーゲンでの原体験は、その後の僕の照明漁り、照明遍歴の紛れもない原点でした。
その日、大寒波がヨーロッパ全土を覆っているとかで、滑走路を飛び立つ飛行機は一機とてなく、駐機中の各社に色とりどりの機体がおしなべてガリガリくんのソーダ味かに見えたものです。
機体整備や着氷の除去作業とかで半日も待たされた挙句に、今夜は飛ばない、宿泊ホテルも確保した、との説明をやっと受けるに至って、徒労感はピークに達していました。が、ひとたび宿泊先への移送用のバスがすっかり日の暮れたコペンハーゲン郊外に差し掛かるや否や、乗客たちの溜息は感嘆の吐息に変わったのでした。
月並みですが、それはもうおとぎ話の絵本から飛び出したような北欧に独特の家々の光景。いえ、とっぷりと日が暮れて「家々」はその輪郭しか判別できないのですが、各戸の窓から溢れるランプの——より正確には、白熱球の——仄暗い明かりにすっかり魅了されてしまったのでした。ただただ美しかった。
そこからの40年、僕はあの「仄暗さ」と暖かさを求めて、照明を漁り、あーでもないこーでもないと配置を変えて、いくつかの家、いくつもの部屋のスタイルをつくってきました。
ただ、こうして目を悪くし、太陽光や蛍光灯、LEDなどのまぶしさにことさら過敏になってみれば、「仄暗さ=居心地の良さ」を追い求めてきたのが必然に思えて仕方ありません。
それが証拠に、「まぶしさ」から逃れるべく、努めて日本中の仄暗く居心地の良い場所のレパートリーを日々増やしてはいるのですが、やはり我が家に勝る場所は世界のどこにもありません。
実は、30年やってきた「多拠点生活」の終焉と本気で向き合い始めています。目のこともあって無理の利かないいま、「家の断捨離」は身体的にも経済的にも待ったなしの喫緊の課題です。
そこで、試しにとばかり長男・次男にLINEで訊いてみたんです。
「(東京の)実家マンションの中のもの、欲しいのがあったら言ってみて。基本、なんでもあげるから」
案の定、そもそもインテリアにさほどの関心もない次男からはなんの音沙汰もなし。一方で、さっそくお嫁さんと協議したらしい長男の方からは、即日、
「熟慮の結果、良かったら、①食卓上のペンダントライト、②食卓横のスタンドライトの2点をいただきたく…」
とのレスポンスが。よしよし、そーきたか、と独り言ちながら、いま一度それぞれの来歴をLINEし直したのでありました。
「①ルイス・ポールセンながら、ポールセンものにしてはデザインも控えめ、かつシェードも珍しいティファニーブルー? 変な圧がかかったのか全体にほんの少しひしゃげてはいるも、それもまた愛嬌と理解されたい」
「②吉祥寺駅すぐの、いまはなきミヤケで買ったもの。アンティーク風ながら20年前に新品で購入(もはやアンティーク?笑)。価格も1万したかしなかったか。なのに、ブラス(真鍮)と木のコンビネーションが絶妙。かつ柄が途中から二股に分かれているのがいとお洒落。(ポールセンはともかく)こちらはボロボロデ使エマセンになるまで所有し続けるつもりでいたが、請われるうちが華。持ってけ、泥棒(ت)♪︎」
札幌でアンティークショップを経営していた古物商の女性に訊いたことがあるんです、イギリスやベトナムまで出かけて行ってやっとかっと手に入れたモノが売れてなくなるのは寂しくはないのか、と。
「出会えて幸せ、それをまた誰かに見つけてもらえて幸せ。古物商は一つの掘り出し物で二度幸せにあずかれる」
そんな返事だったかと記憶します。
人生の折々で出会った我が家の照明くんたちも、これまではヤマトの家財宅急便でさんざん全国を引き回されて、あちこちの「我が家」を仄暗く照らしてくれたわけですが、今後はぼちぼち我が家以外の場所に灯ることでまた別の魅力を発揮することでしょう。寂しくなるわ? 大丈夫、きっと遊びに行くからね。
※追記: 本稿を書くにあたって驚いたことには、「ルイス・ポールセン」が専ら会社名、ブランド名であり、人名ではなかったこと。あの革命的「PH5」のデザイナーは、ルイス・ポールセンならぬ、ポール・ヘニングセンだというではないですか! マダマダ修行ガ足リマセン。