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東京タワー

午後から芝公園のとある財団で会議。ここでは過去に何度も会議をやっているが、最近、当の財団がリノベですっかりレイアウトを変えたこともあって、財団がこんなにも素晴らしいロケーションにあっただなんて……改めて驚かされた。手前に増上寺や芝公園の緑を配して、東京タワーが頭のてっぺんから足の爪先まで丸ごとキレイに見える。


泉岳寺に10年暮らした港区民時代はもう四半世紀も前のこと。いまさら家賃月云十万払ってまで「港区民」に戻ろうとは思わないが、

「家賃タダでもかまわない。お願い。住んで住んでー」

と誰か彼かに懇願されるんならもう一度暮らしてみてもいい。街角のそこここから東京タワーがひょっこり姿を見せてくれるのは港区暮らしならではの楽しみ。東京タワーとともにある暮らしをもう1回、1年だけでも手に入れたいような入れたくないような……。

その昔、東京タワーの「爪先」には、港区民御用達のゴルフの打ちっぱなしがあった。

結婚した女性の父親は、「ゴルフをやらずしてなんの男の人生」との強い信念の持ち主だった。その信条になかなか寄り添わない娘婿に業を煮やした義父は、「ゴルフ入門」とかなんとか冠したビデオ5本セットを宅配便で送りつけてきたり、

「買ってみたら僕の背丈に合わんかったから、これ、あんたにやるよ」

などと可愛いウソをつきながら、キャロウェイのドライバーをくれたりした。

それでも、生憎、こちとらは中学からの筋金入りの「帰宅部」。身体を動かすをことさら欲しない上に、貴重な週末を野郎4人で朝から晩までつるむのが心底嫌だった。嫌々やるから上手くもならず、上手くないからコースにも出ない。

そんな僕も、東京タワー付属(?)の打ちっぱなし「芝ゴルフ場」の打席に立つことだけは例外。とりわけ、自宅で早めの夕飯を済ませたあと、東京タワーの麓でキャロウェイをぶん回す「ナイター打ちっぱなし」が大のお気に入りだった。

2005年に開業したザ・プリンスタワー東京の建設用地として、2001年にすべての営業を終了したそのドライビングレンジは、実は、1959年開業の、日本最古のゴルフ練習場だった。300ヤードを誇る超巨大打ちっぱなしで、なんと3階建て。リアルなゴルフ場との親和性からか1階が若干利用料お高め(=同じ価格当たりの球数が少なめ?)で、3階が一番お得だったと記憶する。そもそも「リアルなゴルフ場」になんら拘りのない僕は、もっぱら眺望重視の3階派だった。

打席に立つや、遮るものなき崖端に追い詰められたも同然で足がすくむ。その身震いする感じ、金玉が引き締まるあの感覚も含めてなんとも爽快だった。

ゴルフバディと呼べる知り合いの一人いなかったが、それでも思わぬ人物との出会いや再会もあった。

例えば、泉岳寺の同じマンションの住人のSさんご夫妻。S夫妻は初老のイケオジ・イケオバと記憶するが、当時、まだ30代前半と若い僕には「初老」に思えただけで、もしかしたら二人とも50そこそこだったやもしれない。

「こんばんは」

先に声をかけたのは僕の方。

「あ、こんばんは」
「こんばんは……」

僕が僕であることを認めたS夫妻それぞれから笑顔がすっと消え、二人とも小動物の、怯えるような目で会釈をされるのだった。

「あ、1階ですよね? 僕は3階なもんで。こちらで失礼しまーす」

と努めて明るく振舞ってみれば、いくらか警戒心も解けた様子で、

「理事長さん、お若いから飛ぶんでしょ? 羨ましいわ。いつかコースもご一緒したいわ」

とS夫人。おいおい……余計なことを、とばかりご主人がS夫人の横腹を人差し指で小突く。

「機会があればぜひぜひ。では、失礼します」

と向き直るなり仏頂面で3階まで続く階段室に消える僕であった。

そう、当時、僕は若くしてマンション管理組合の1年任期の理事長だった。老いも若きも逃げ腰で、理事長の引き受け手が見つからないものだから、渋々引き受けたのだ。なのに、なってみれば、早速、マンションの大規模修繕に係る積立金が、資材や人件費の高騰で大幅に足りない事実が判明。積立金問題への対応がいきなり僕の双肩に重くのしかかっていた。

結局は、理事会の議を経て、各戸から50万程度の「追い銭」を一律に徴収することに。理事会のメンバーで手分けして理解と協力を仰ぐべく各戸を周ったのだが、「港区民」とて懐事情はさまざまで、2度目、3度目の訪問ともなると居留守を使われることも珍しくなかった。

さて、S夫妻も、そんな「居留守」組。とりわけ弁の立つ奥さんの方はタチが悪かった。

「主人が病気がちでなにかと入り用が多いものですから……」

と散々はぐらかされた挙句に、「霊水」とかなんとか銘打った、1ダース1万円の金粉入りの水まで買わされそうになった(……というか、その実、買った)。まだまだ人生経験が足りないことをまざまざと思い知らされた、若き日の、苦い経験だった。

もちろん、東京タワーパワーが嬉しい再会を演出してくれることもないではなかった。例えば、プロカメラマンのミヤモトさんとばったり再会できたのも芝ゴルフ場。

ミヤモトさんとは、お互いがまだ20代の前半、三鷹台駅(井の頭線)近くの「加藤金太郎アパート」でお隣りさん(正確には、上下の関係だったので「お上さん・お下さん」)同士だった。カトキンアパート時代はまだ駆け出しのカメラマンだったミヤモトさんも、すでに押しも押されぬ日本屈指のゴルフ専門カメラマンに。素人目には、撮るだけでなく振る方もなかなかの腕前とお見受けした。

バブル経済はすでに終焉が明らかだったが、ビジネス界はまだまだ「ゴルフ場ネットワーク」偏重の時代。まさに時代の寵児たるミヤモトさんがクラブを振るたびに、

「ナイショ!」

と声を上げるお調子者の僕だった。

掛け声を掛けながらも、脳裡にはミヤモトさん、ミヤモトさんの当時の彼女にして後に奥さんとなるノリコさんとのカトキンアパートでの夜ごとの宴のことが懐かしくも愛おしく思い起こされた。みんな若かったし、いまでは考えられないほど軽装備のローメンテナンスだった。

これまでの人生、ミヤモトさんとはニューヨーク時代の拙宅や件の打ちっぱなしなどで何年かに1回ペースで再会を果たし得たが、お二人がすでに離婚したいまや、ノリコさんとはこの先も一生会えないのだ。亡くなってもいないのに、「カトキンアパートのノリコさん」は亡くなったも同然。如何ともし難い事実がここにある。

東京タワーの麓に、あの伝説の打ちっぱなしはもうないが、増上寺の横のレストラン「ルパン・コティディアン」は好きで、割とよく行く。

「ルパン」と言えば、ニューヨークも東京も、コミュナルテーブル(=公共テーブル、共用テーブル……)だが、芝のルパンにも、ぐるっと囲めば10人や15人は優に座れそうな大テーブルがあって、一人であれ二人であれ、僕はその一角に陣取るのが好きだ。

サラダと一緒についてくる何切れかのバケットにたっぷりジャムをつけて頬張りながら、ふと顔を上げてみれば、コミュナルテーブルのあちらこちらに見知った顔、顔、顔が……。S夫妻、ミヤモトさん、それにもはやミヤモトさんとは同席しないがルールのノリコさんまで座っていたらどうしよう。

会議の内容そっちのけで東京タワーに見惚れながら、そんな馬鹿な空想に遊んでいたら、ルパンのガスパチョが無性に食べたくなった夏の昼下がり。おしまい。

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