好きだから吉祥寺と卒婚?
東京の我が家から最寄駅の吉祥寺までは早歩きで20分ですが、仕事やふつうに急ぐときはバスに乗ってしまいますので、歩くときは急いでいないときか、無駄に歩きたいときかのいずれかに限ります。
「無駄に歩きたい」などとカッコつけましたが、その実、「無駄な贅肉を落としたい」と書くべきかも。じっとしてても奴らは勝手には落ちてはくれない、そんな年齢にさしかかっています。
基本、自宅マンション前の吉祥寺通を駅に向かって道なりに真っ直ぐまっすぐ進むのが最短コースなのですが、5分も歩き、三鷹の森ジブリ美術館まで来たら、美術館手前の小径を右折して井の頭公園の森に分け入っていくのがお気に入りのコース。あとは画家・吉田キミコさんのカフェ「うさぎ館」の先に、一箇所だけある、横断注意の車道を横切ることになりますが、大学生の頃からこの公園を「我が裏庭」と心得てやって来た身。霞んだ目でもそうそう大木の根っこや微妙な段差に蹴躓くことはありません。
さて、そんな大好きな吉祥寺との長いながい蜜月もいずれ終わりはあるのではないか、と考えることが最近とみに増えました。
そういえば、きのうの、羽鳥さんのモーニングショーで「卒婚」の特集をやっていたよな、と。たまたま一緒に観ていた家内から、考えたことある? と訊かれたものですから、
「ソツコン? ないよないよ。ゾッコンだから」
あれ以上の上手い返しはなかった、といまも自分に感心するんですが、吉祥寺は、三鷹台に住んでいた……いや、その前の大泉学園に住んでいた学部生の頃からのゾッコンの街。でも、そろそろ卒婚もありかな、と考えたりもするわけです。
というのは、そもそも「吉祥寺にゾッコンな僕」が自己目的化してはいまいか? もっとその事実や根拠を相対化する必要があるのではないか、と思うのです。ま、簡単に言えば、いったん距離を置く、すなわち、いわば卒婚ですね。
「2拠点居住、多拠点居住を実践して30年」
とエラそうに言ったり書いたりすることがあるのですが、僕の場合、極論すれば、吉祥寺の呪縛から逃れられず、吉祥寺をキープくんにしておいて「もう一人か二人の別の彼女」としての他地域とお付き合いしてきたのではないか、と自問自答するわけです。もう少し踏み込んで言えば、吉祥寺ちゃんという本妻がありながら、そのときどきで情にほだされて別の女性と重婚関係に陥ってきたようなもの、と言って言えなくもありません。
そもそもマルチ・ハビテーションには、夫婦それぞれの仕事や子供の学校などの都合で、といった外部要因による、他律的なものと、その土地や街や人々と恋に落ちて、といった自己都合による、自律的なものとがあるように思いますが、こと「自律的なマルハビ」に限っては、そんな決められない症候群や捨てられない症候群も多少なりとも関係しているのではないか、というのが「30年選手」としての問題意識です。
もっとも、「吉祥寺との卒婚」には、最近、生活の中の冗費を見直しつつあることとも大いに関係が。スマホのプランを見直したり、生命保険のメニューを削ぎ落としたりして、月々の支出を1千円でも2千円でも切り詰めるのは清々しいものです。
「書を捨てよ、町に出よう」
は寺山修司ですが、さしずめ、
「町を捨てよ、拠点は1つで十分だろが」
でしょうか。さはさりながら、年中いろんな我が家に帰る、の魅力はなかなか簡単には捨てられそうにありません。