『バートルビーズ』舞台評 (坂手洋二作・演/燐光群) 「テアトロ」 2015年11月号

抵抗の諸形態として 

 いまから十年ほど前だろうか。ハーマン・メルヴィルの短編『代書人バートルビー』が小さなブームとなったことがある。現代思想の文脈でジョルジョ・アガンベンの『バートルビー 偶然性について』という本が出版されたことが、その原因の主な理由の一つだった。

 メルヴィルの長編『白鯨』の方は、ある意味で小説という形態の自由さを示したものだ。いわば、物語がありながらも物語のみにたよらず、半ばそこから大きく逸脱して鯨そのものを博覧的に論じ叙述するスタイルは、「物語」と「小説」というものの本質的な違いを示していた。実際に物語が展開する後半部分の、そのなかでも終わりの方まで読み続けることは、そのエクリチュールのなかに引き込まれない限り、単に退屈であり苦痛ともいえる長さというだけで終わるだろう。物語があることはもちろんだが、鯨へのデータなどを含み記述されるこの小説は、鯨を通して世界そのものを見るという一つの世界観の提示であった。それは、物語だけではない、あらゆるものを抱合する小説というものの形態である。ただし、一般的な受け取られ方は、やはりモビィ・ディックとエイハブ船長の物語によって広範に流布されている。

 しかし、そのイメージしかなかった作家が、その後で優れた短編を書いていたこと。しかも現代の文脈へと引きつけられて、抵抗の諸形態の一つを提示しているものとして読まれたことは、当時驚きとともに知られるようになった。それは、古典を単に追認するのではなく、そこから自由に現代の諸問題へと繋がる点を見いだすという、研究ではない批評の本質ともいえることが、現代思想の文脈で鮮やかに展開されたのだ。

 『代書人 バートルビー』のストーリーはシンプルだ。ウォール街で働く代書人バートルビー。かれは、淡々と仕事をこなす人と思われていた。ただし、「〜しないほうがいいのですが」と言って、代書以外の仕事はゆるやかに拒否する。最終的には、その仕事すらも拒否するようになり、雇い人はかれを解雇する。だが、その与えられていた自分の席から解雇されても離れようとしない。居座り続けて、仕方なく根負けした事務所の方が移転する。たとえ新しい仕事の紹介など、なにかをしてあげようとしても、その善意すらをもやんわりと彼は拒み続けて死ぬことになる。

 その行為と拒み方は、不条理の寓話として、ブランショ、デリダ、ドゥルーズ、アガンベンなど現代の思想家たちが後に直接、間接を問わず言及することになる。端的に言えば、バートルビーが語る象徴的な言葉、「〜しないほうがいいのですが」という言葉を、受動的な抵抗、もしくは何か一つの意味へと還元されることを拒否して、そこに宙づりにされる場所が確保されるものとして見ようとしたのだ。これらは、先に述べたアガンベンの本の解説「バートルビーの謎」に詳しい。

『バートルビーズ』について

 このような文脈を踏まえると、この『代書人バートルビー』がモチーフにされて舞台で上演されると聞いたとき、なにをいまさらと思わなかったといえば嘘になる。少し前の現代思想のブームをリバイバルしているのかと思ったからだ。それは、『バートルビー』という短編とその読解という比較的わかりやすい作品を踏襲するという印象もあって、たとえそこからインスパイアされたとしても、見えてくる世界はどうせ予想がつく範囲と高をくくっていた。

 だが、坂手洋二率いる燐光群が作った『バートルビーズ』という作品は、こちらの予想を越える要素が、たとえ核心としての可能性かもしれなくともあった。この『バートルビーズ』は、おそらくこのアガンベンの小論とそれについての解説、そして小説が収録された一冊の本に触発されたということはできるだろう。当日のパンフレットに参照されるように他にも色々とあるのだろうが、この作品が書かれるための題材の大きな一つということは疑いようがない。

 実際、劇中には論文を書いて引用しているわけでもないのに、わざわざ参照先のようにこの本の名前をはじめとしたいくつもの情報が出てくる。そこまで作品のなかでわざわざ言う必要があるのかと思うぐらいの説明的なシーンもあった。それをいつもの坂手作品と同じように、インフォメーションが次々と羅列される演劇と言ってしまえば、たとえ煩わしく感じても、もはや持ち味と言ってあきらめるしかない。

 だからというわけではないが、この作品のもっとも核心的な部分は冒頭にあったように思う。冒頭から始まる長いモノローグ。一人の男が淡々と話していく。かなり長く、時間にして十分か十五分ぐらいはあっただろうか。しかし、その語りにこの作品で繰り広げられるすべてが含まれていたのではないか。むろん、その語りに観客を聞き入らせて、飽きさせることのない優れた俳優の力量があったことは言うまでもない。

 感覚的な話だが、全くの期待もなしに観客席に座り、これから起こることを何の気なしに見ようとしている作品であったとしても、開演直後に急に居住まいをただされるような瞬間がある。それはなにもスペクタクル効果を用いて、観客の意識を捉えて離さないといったような演出に限らない。そこで作られる空間の密度が違うとでもいうような、開演直後の緊張した瞬間に一気に観客の意識を連れていくような瞬間がある。

 この場合、たとえ長いモノローグであったとしても、空間が凝縮化されたとでもいうような一瞬の緊張を感じさせられた。そして、バートルビーの象徴的な台詞や東日本大震災のもとで起こった福島の病院での出来事を通して、そこからどこか別の場所へと移動することをやんわりと拒否、もしくは拒否をしたことそのものへの戸惑いも含めて、そこに居続けるという選択とはどういうことが提示されようとしていた。そこから、物語のなかへと、もしくは「〜しないほうがいいのですが」という言葉の試みについて端的に述べたのが、この導入だった。

 単に期待が膨らんだとか、これから始まる物語のための序として上手く作られていたというだけではない。そこには、小説のバートルビーに触発されただけでない、その原作のもつ本質的な要素を違う側面から照らした部分が垣間見える。確かに、バートルビーは、声高に抵抗するのとは違う、抵抗もしくは抵抗そのものへ本質的な問いがある。それが、いわゆる現代思想の文脈で読み込まれてきたものだ。

偏在するバートルビーたち

 この始まりのシーンでは、その受動的なる抵抗が、ある状況下において選ばざるをえないものとなってしまうこと、いわばそれを取りまく環境そのものにまで視野が広がっていた。いわば、小説の場合の『代書人バートルビー』では、一個人が示したとめどない抵抗の所作が、この場合はさらに文脈が広げられて、状況において示さざるを得ない、抵抗という言葉ではもはや捉えきれないようなものとして、自身が位置づけられてしまうものとは何かを最初のシーンによって考えさせていた。

 むろん、『代書人 バートルビー』が現代思想の文脈で読まれたといっても、その抽象的な思考は変わりようがない。それが今作では一挙に、より卑近な例へと、現実を伴った震災の極限状態として、遠い寓話を現在の問題に変換させた。それは作品のタイトルの通り、複数の『バートルビーズ』として、原作をはじめ、さまざまな場所にバートルビーたちは偏在していることを示した。そして、「〜しないほうがいいのですが」というフレーズが、原作のバートルビーを舞台に入れ込むようなシーンをはじめ、福島の病院でのシーンなどさまざまな形で見せられる。その状況を提示するというこの作品のモチーフとその視点の鋭さは優れている。

 もちろん、その後に展開されたことは、先に述べたようにいつもの坂手作品らしく、きれいに流れるストーリーでない分、わかりづらさはついてまわった。断片化されたシーンの構築によってできあがる手法は、それらが繋がることはない分、まとまりのなさは感じる。それぞれがどこかに繋がるのではなく、間に入れ込まれているからだ。だから、ここ最近の作品と同じように、作家の思考自体が断片化してしまっているのではないかと思うこともある。ただし、そのような劇作としてのうまさなどは、バートルビーズとして置かれた状況をいかに考えるかという重要性によって、もはやどうでもいいと思わせるあたりも劇作家の特徴だ。

 「〜しないほうがいい」という言葉よりも、その言葉が置かれてしまう状況を見ること。その取り囲まれた状況に対して、それが最善か、次作の手かもわからないままであっても、逆説的に選び取らざるを得ない中に「〜しないほうがいい」という言葉はある。それはもはや意志であると同時に意志によって選択したとも言えない、もはや答えそのものをも宙づりにするという、かつての現代思想の試みがときに通用しない悪化した状況があることを知らしめている。その中において、震災のときに福島の病院での出来事をおいたこの作品は、バートルビーそのものからも違う視点を提示した可能性をもっているのではないか。


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