互いに大事にしあうことの豊かさ、「愛と親切」でつながりあうことの豊かさ
この文章は2018年7月にいのちのことば社の取材を機に作成したものを(当時の内容を保ちつつ)改変したものです。もともとクリスチャン向けに書いたものなので読みづらいところがあったらそういう背景があったんだなと思ってもらえたらと思います。
伝統的知恵を未来に引き継いでいく
ウェル洋光台は24世帯、32人が暮らすシェアハウスです。私たちも家族4人で住んでいます。ほかにもたくさんの家族やカップル、そして独身の方が住んでいます。アメリカやフランス、台湾、ギニアなど海外から来られた方々も住んでいます。
日々のコミュニティにおける、シェアハウスの特徴は、人と人との距離感が大変近いことです。いい意味でも悪い意味でも、人の本音、本心が隠されることなく相手に伝わってしまいます。
悩み祈り、そして多く失敗させていただきながら、運営して来ました。壁にぶつかって悩んだ時、落ち込んだ時、いつでもヒントを与えてくれたのは、互いに大事にし合うこと、愛と親切でつながり合うことの豊かさを説いた伝統的な知恵でした。そして、神さまの恵みの中でいつも守られてきました。
私たちのシェアハウスは、ギフトエコノミーというところで世間で着目されましたが、ギフトエコノミーは伝統的な教会や僧院では当たり前のことです。それがいかに持続しうるのか、多くの失敗を経て醸成された豊かな知恵の蓄積が各地の伝統的知恵の中には揃っているのではないでしょうか。
一方で、諸宗教をはじめとする伝統的知恵は世界の紛争の原因にもなってきました。安易な自己弁護を残したままでは、多様な考えを持った隣人たちと共に活き活きと暮らしていく事は難しいのではないかと私は思います。
資本主義と個人主義が世界を席巻し、どの伝統的知恵もかつての勢いを失って久しい時代です。夜明けの気配は地平線の彼方に見えているでしょうか。想いある人たちが伝統や宗派の違いを超えて連帯し、先祖から引き継いできた豊かな伝統的知恵を未来に引き継いでいけることを願います。
この文書では、気仙沼の方言を導入し、普通の日本人にとってのわかりやすさと正確さにこだわった聖書翻訳に取り組んで来た山浦玄嗣さんの福音書訳を引用しながら、私が大切にしたいと願ってきた伝統的知恵について述べてみたいと思います。
私と教会
私が、キリスト教に出会ったのは、国際キリスト教大学においてでした。この大学は、助教授以上は全員クリスチャンという特色を持っています。日曜日の教会では、先生方がプライベートのことを話しており、よく面白がって友達を誘ってたまに出かけていました。先生たちは、研究よりも教育に重きを置き、情熱を持ってこころから生徒一人ひとりに向き合っていたように思います。
私が、教会に毎週通うようになり、洗礼を受けたのは、日本で一番古い教会をルーツに持ち横浜ユニオン教会においてでした。アメリカでトレーニングを受けた長老派の斎藤顕牧師との出会いは、私がウェル洋光台で出会った、いまの妻である朱美さんとの結婚式をあげる場所を探している時でした。初めは神社を考えていたのですが、横浜石川町の山手の丘にある教会もオシャレで良さそうだなと考えたのです。それで、ふと歩いていて見つけた横浜ユニオン教会で、入り口の看板にあった電話番号に電話したところ、携帯を持った顕牧師が扉をあけて出てきたのです。「クリスチャンになるつもりはないが、ここで結婚式を挙げることはできるのか」と生意気な真面目さをもって私がいうと斎藤牧師はこう答えました。
それで、その教会で式を挙げることになり、実際にマレッジカウンセリングを受けた時、たしかに、キリスト教の話は一切ありませんした。ただ、最後に一言だけ言った言葉が印象に残る言葉でした。
斎藤牧師は説教で、「私たちは自分がクリスチャンだと思って、早くあの人も救われますようにと、いい気になっていないでしょうか。」とよく問われていました。それで、私が洗礼を受けた後も、私の妻も安心して一緒に通ってくれることができました。当時、私は人生で最も幸福な時期のひとつにありました。しかし、最も幸福だったからこそ、自分の限界も感じたのです。
それが私の回心体験に繋がりました。回心体験についてはここでは深く触れませんが、関心がある方は体験談を書いている人がたくさんいるので調べてみてください。でもそれは、もしかしたら、恋のように体験してみないとわからないものなのかもしれません。私の場合、暖かさが溢れて、1週間ぐらい涙がずっと止まらない日々が続きました。ちなみに、頑固な私が洗礼を受けたのは、それから約2年後のことです。
怒りやすさだったり頑固さだったり、斎藤顕牧師は自分の弱さをオープンにする人でした。そして、聖書の言葉をその時代のコンテクストの中で調べることに熱心で、たくさんの聖書学の本をいつも手に抱えて毎週の説教に備えての事前準備を怠らず、いざ説教になると、聖霊が降ったかのように、即興的で心にずしんと響く話をされる人でした。パウロやルター的な情熱と知性に溢れた人でした。
ちなみに、今私が所属しているのは近所にある洋光台キリスト教会。三世代に渡って通う方も多い、懐の広い教会です。
シェアする暮らしと教会
使徒行伝の時代では、家という単位の中で暮らしの多くのことがなりたっていたようです。そこには、たくさんの家族が共に一つの家で暮らしていました。その家がいくつか集まったのが、初期のキリスト教コミュニティでした。教会の営みも家が中心だったはずです。そのコミュニティは、日々愛餐と呼ばれるもちよりの食事会を行う事に特色のあった暮らしのコミュニティでした。
当時、神さまとの契約は、家長が代表して行い、その効力は家に及ぶものであるという考え方でした(幼児洗礼の根拠でもあります)。そのクリスチャンたちの暮らしコミュニティでは、自分で宗派の選択をした個人主義的な意味でのクリスチャンは、そう多くはなく、むしろ少数派だったのかもしれません。家長が現代的な意味でのクリスチャンとなった事で、「なんか、うちはクリスチャンになったらしいよ」というメンバも多かったでしょう。ただ、その暮らしコミュニティは、キリスト教精神の上に成り立っていたはずです。
その、現代のプロテスタント的な文脈で見ればクリスチャンでない人が多い、しかし、キリスト教精神の上に建てられた暮らしコミュニティは、イエスが説いた地における神の国の実現の試行錯誤の場でもあったでしょう。地における神の国は、個人個人の中にあるのでなく、人と人との間にあるものだからです。
イエスの宣教はこの言葉ではじまりました。それでは、その「よきたより(福音)」とはどんなものであったでしょうか?
結局、真の幸福とは何かを語ったとされる有名な「山上の垂訓」の冒頭箇所は、徹頭徹尾、貧乏人の話であり、イエス自身も、ツェダーカー(施し)に頼ってその日暮らしをする、腹の減った旅の説教師だったはずだと山浦さんは言います。
以下、「よきたより(福音)」の教えについて「愛」「完全さ」「裁き」「信仰」の4つの観点からみていくとともに、私たちの家で取り組んできた事についても話していきたいと思います。
愛(アガパオー)…神さまのもとで、自分自身のように互いに大事にすること
イエスが語ったのは、目の前にいる我が身と同じように互いに大事にしあえという事でした。そこにこそ、「神さまのお取り仕切り」が実現するのであり、それは「あそこにある、ここにあるというものではなく、お前たちに間にある」と。イエスの伝えたかったことはどうしたらその幸せにたどり着けるかということではなかったかと山浦さんは言います。
ユダヤ教徒だったイエスが大切にした相手は誰だったでしょうか?のちに裏切ることになるユダも含め弟子を大切にし、一方、サマリア人やローマ人やカナンの女も大切にし、親切にしました。
この「~とよ」を山浦さんあえて付け加えます。イエスはユダヤ人たちの頑固な選民思想をことさらにこの侮辱の言葉で表現して「許してくれ」と謝っていると彼は読み取るからです。
特定の人を敵と感じるのは、私たち自身です。敵と感じる人を自分自身のように大切にすることがどうして良い頼りにつながるのか、どうして、義務感や太っ腹でありたいというような心もちからでなく、心からそのようにしたいと思うのか、そのことがこの10年で、実際的にわかってきたように思うのです。
敵と感じた時、私は私自身が私自身の心の中の敵そのものだったとして、それでも、神さまが私を愛してくれるだろうかと問います。神さまが愛してくださることをこころから感じる時、こうであってはならないという義務感から解放され、私の心はまた一つ荷が軽くなります。敵と感じていたのは、その人そのものでなく、敵と捉えて自分の中から分離させていた自分自身の一部であったかのようです。
マザーテレサがいうように人が必要としているのはサービスや哀れみでなく、「愛と親切」です。「愛と親切」こそが平和の鍵であると自分の経験からも心より感じるところです。こころから素晴らしい人と思えなければ「愛と親切」は働くでしょうか。マザーテレサは貧しい人は素晴らしい人だといいます。マザーテレサにとってここの文章は、「は」であって「も」ではないのです。
どんなにシェアハウスの「しくみ」を整えても、大家と住まい手との間の利益背反をはじめとして、人が共に暮らすことが抱える矛盾は解決しないでしょう。この矛盾を解決できるもは、他人事でない関係性、自分自身のように互いに大切にしあう関係性しかないと思います。私は、人の持つ「愛と親切」が素直に響き合うことが、コミュニティの豊かさの生み出す源ではないかと私は思います。
完全さ(テレイオス/シャレム)…神さまの作られた己のありのままを受け入れること
山浦さんは言います。
お伝えしたように、生活の場は、弱さがさらけ出される場所です。言わなくてもいずれは「本音」が伝わってしまう場所です。よく言えば、ありのままの自分自身の心を整えることに心をフォーカスすることができる場とも言えます。勇気をもって、ありのままをさらけ出すことで、より楽に暮らすことができるようになります。逆に、ありのままでいることが難しければ、ラウンジやキッチンなど共有の場に長居することは難しいでしょう。
ふしぎなことに、ありのままの自分自身を受け入れれば、受け入れるだけ、他の人のありのままを受け入れられるようになるようです。ありのままの自分自身を受け入れ、自分自身を欺いていた偽りから解放されるにつれて、自分自身がいかに弱く問題を抱えた存在であるか、そして、そのような自分自身のありのままを、妻や隣人たちがいかに受け入れてくれていたのかが見えてきます。
ありのままの自分を受け入れていくに従って、自分自身、そして人の欠点や過ちが滑稽さに、そして愛らしさに感じられるようになりました。ありのままの自分を受け入れていないと、その受け入れられていない自分の心を世界に投影し、他者に怒りを感じることが多いようです。すくなくとも私の場合は、怒りを抱く他者の側面を演じている自分自身の心を受け入れることによって消失する怒りが驚くほど多いのです。漫画ドラゴンボールのピッコロ大魔王の逸話は象徴的です。
ありのままを受け入れ合うことは、ありのままの人が持っている問題を、その人自身の問題にせずに、人と人との間にある問題にすることといえます。べてるの家の言葉でいえば、「ともに弱くされる」関係性と言えるでしょう。
そうすると、さまざまな問題があからさまになってきます。これも、べてるの家の言葉ですが「常に問題だらけ」の場所になるはずです。その問題を無理やりに解決しないようにしています。あれこれ解決策を出し合ってそれでも「あちら立てればこちらたたず」解決しないさまをみて、「困ったね、また話そうか」と、ともに困り続けていくのです。
「私の家族には何の問題もない」と本気で話す子供がいたら、大丈夫かなと思わないでしょうか。「常に問題だらけ」だと捉えているからこそ、なにか問題があった時に、「こんなに頑張っているのにまだ不満があるのか」とか「この家には、この家のしくみには、何の問題もない。あとはあなたの問題だ」と、突き放す態度がなくなります。
私はある時に気がつきました。本当は問題に囲まれて暮らしていたかったんだな、と。問題だらけの場所は、問題が見えている場所です。問題が見えていると、神さまの恵みがより明確に見えて来るように思います。問題だらけであることの恵みや魅力の中にキリスト教精神の本質が宿っているように私は感じます。
裁き(クリスィ)…良し悪しをあげつらわぬこと
人が楽園を追放されたきっかけとされたのは「善悪を判断する(裁く)木の実」を食べたことでした。
ヨハネの福音書が説いたハマルティアー(語源は的を外すこと)は、悪いとわかっていてしてしまうこと(罪)でしょうか、それとも、意図せず結果として重大な厄災を招く行為(過ち)でしょうかでしょうか?山浦さんは、徹底して後者だったのではないかと見ます。曰く、「ヨハネ」はパウロの数々の書簡に繰り返し述べられている倫理的な罪について取り上げることを一切しない。それどこか「ヨハネ」のイエスは以下のように言明しているーというわけです。
私たちは、裁かないことを「良し」としてしまい、「裁く人」に怒りや難しさ、苦手さを覚えがちではないでしょうか。そして、同様に、「自分がされたくないことを人にしてはならない」という黄金律を良しとしてしまい、やはり、「自分がされたくないことを人にする人」に怒りや難しさ、苦手さを覚がちではないでしょうか。神さまは、そんな私たちを善し悪しいわず、大切にしてくださいます。神さまは「裁く人」「自分がされたくないことを人にする人」をも愛してくださいます。そうして、世に降りて、罪とも思わずに、人を殺す「死刑」という究極の人類の過ちにまで寄り添ってくださいました。
実際には、裁く弱さ、自分がされたくないことを人にしてしまう弱さは神さまが慈しんでくださる私たちの愛らしさなのではないでしょうか?幼い子が、自分がされたくないことを人にしてしまう時、人の親さえ微笑んで見守ります。
わたしたちは死刑が的外れだと述べます。しかし、わたしたちが人が懲役を受けることに対して何の咎も覚えないのであればすでにわたしたちは的外れなのではないでしょうか。できる限り、人が人を裁くことのない間柄を育みたいと私は願うのです。
私たちは、社会を構成するには、ルールと懲罰が必要であるという考え方がしみ込んでいます。そして、みんなで決めたルールならば問題ないとしがちではないでしょうか。しかし、アーノルド・トゥインビーは、「みんなで決めたことに従う」ことは、集団を神として崇拝することにつながることを述べます。ルールがあること、必ず破る人が出てきます。その時にトラブルになりがちです。みんなで決めたルールならば、その問題が解決されるでしょうか?そうではないと感じるからこそ、私たちは、ルールに頼らないということを追求してきました。それを「問題を「みんなのルール」で解決しない」と表現しています。
どうやって、ルールや良し悪し(共通の理念・価値観)に頼らない間柄が成り立つでしょうか?そのことを教えてくれたのが、ネイティブアメリカンをはじめとする狩猟採集民の群れの生活・生態でした。彼らはあえて、文字を作りませんでした。文字があると、言葉が固定化されて言葉が流れなくなってしまう。「言った」ことに縛られてしまう危険性に気がついていました。
私たちはもう狩猟採集民に戻ることはできません。狩猟採集民は文字の民に勝つことができませんでした。私たちに求められているのは、文字持つ毒を、文字を捨てずに解毒することです。「よきたより(福音)」などを起点に紡がれてきた、先人たちの伝統的知恵にはその力が秘められていないでしょうか。
「どこまで許されるか」という基準でお互いに様子をうかがわず、それぞれがそれぞれの「弱さ」「特別さ」を受け入れ合えば、ルールはずっと少なくて済むはずです。そして、イエスのといた「互いに大事にしあうこと」すなわち、「愛と親切」は、みんなで決めたサービスを当番制でこなすことの代わりになります。
私たちのハウスでは、サービスは物理的な場所の提供のみとし、サービスをなしにしてみました。その代わりに、掃除したい人が掃除をし、パーティを企画したい人がパーティを企画し、というようにやりたい人がやりたいことをすることにしてみました。固定なく、そのときおりで、成り立たせたいものが成り立っていくあり方です。その実験を通じて、サービスと違って、自由に贈ることは、人の中にここにいていいんだという心からの居場所感を育む様をみてきました。
ハウスではだれにも評価されないけれども、皆のためになると思うことをそっと多くの人がしてくださっていて、その願いによって、支えられてきたように思います。
信仰(ピスティス)…神さまをより頼みにすること。
花が気が熟するときに、咲くように、人にも、人それぞれの一直線ではない多様な発達があります。人は自分の力で発達していくのではなく、この世界の自然において、発達していく存在です。早期に大人でいなければならなかった子供には歪みが出ます。子供を見れば分かることですが、草木を見て、無理に花を咲かせようとすることほど、的外れなことはないでしょう。この世界や神さまに対しての信頼感の発達もまた同じでしょう。
神さま、そして、人や世界を信じれるようになっていく営みは一人一人のものであっても、その邪魔をしないようにすることはできます。そして、人が助け合うことができることがあります。今まで述べてきた、「互いにありのままでいること」や「よく話して自由に物事をなしてみようとすること」、そのために必要な勇気を愛と親切は育んでくれます。「人同士が互いの信頼を育んでいくこと」。これも親が子供にできることとであり、私たちが互いに励まし合うことのできるものです。
「自分と気が合う人、合わない人がいて当たり前」、「特定の人と距離をおいて当たり前」とするのでなく、すべての人の中に神の霊が働いており、一人ひとりなりの不器用で愛らしい「愛と親切」があると知ること。そのことへの信頼を育んでいくことはできます。みんなで集まって物事をきめるかわりに、距離の遠い人同士が集まって自然発生的に、共感し、共に困ること。不自然な全体会議の代わりに、2、3人での本当の語らいがあること。目に見えず、一見、心細く見えるこのことが本当に大切なものを育んでいくでしょう。
多様な人と共に暮らし、受け入れあっていくことで、ここは素晴らしい、私たちは素晴らしいと言った考え方がいつしか神さまの作られたこの世界を賛美する心へと変容していくようであってほしいと願います。なぜなら、神さまは、「この地」全体を祝福しようとしておられると私は感じるからです。コミュニティは、いったい、悪に満ちた世から人々を救い出す世の避難所なのでしょうか?私たちは、必要な人に与えられた恩寵を喜びつつも、そこで満足してはならないと思います。コミュニティは、「あなたの願いのままにこの地が在りますように」と心を一つにして祈りつつ、神さまに用いられる存在ではないでしょうか?
人はパンによってのみ生きる存在ではありませんが、だからと言ってパンも人には必要です。少なくとも聖書においては、神さまは人に、信仰ではなくパンを与え合うことを通じて、互いに大事にしあうよう促しています。パンを与え合うためには、心を開いて対話することで、その時その時の相手の必要なパンを感じ取ること、そして創意工夫が不可欠です。パンを与え合う喜びは、人本来の暮らしの日々の手仕事を慈しみ、楽しむ気持ちを呼び起こすとでしょう。
互いに大事にしあうことの豊かさ、「愛と親切」でつながりあうことの豊かさ
人はつながり合うことによって、より豊かになっていきます。
今資本主義の文化の中で、多くの家がどんどん小さくなり、そのことによって暮らしに必要なモノやお金が増えています。ただ、暮らしそのものを楽しむこと~スローライフ~がリタイア後の贅沢のようになり、隣人たちに自分の時間やお金を使う余力、愛と親切を行う余力がどんどんと失われて言っています。人がいまや「贅沢」になってしまった人が必要とするものを埋めようとする様々なサービスが登場し、街角の小さな個人商店は潰れて、画一的で大きな店に取って代わり、継続的な人の繋がりはどんどんと失われて言っています。
シェアハウスのようなところで、多くの道具や設備を共有にして暮らすことで、畑を耕したり、キッチンで料理を楽しんだり、暮らしそのものを楽しむことが贅沢でなく、むしろ、お金を使わない暮らしになります。自分がおもいおもいに、暮らしの手仕事にとりくんだことが、皆の喜びや活力になります。実際には総菜屋の料理にも人の愛と込められています。しかし、隣人が作った料理は、神さまが人の中に働きたもうことで発揮される「愛と親切」を直接的にに人に感じさせてくれる力を感じます。
日々の手仕事の中には祈りと願いが込められていて、その祈りと願いで、私たちは暮らしているように感じます。
子供が安心して育つことのできるような、迷惑を安心して掛け合うことができるような共に暮らす暮らし場は、今、日本で試行錯誤されている新しい分野です。志ある方々と共に、次世代に宿る時代の声に耳を澄ましながら、引き続き共に探求を重ねていけたらと願っています。
出典:
「ガリラヤのイェシュー」 山浦 玄嗣 2011年 イーピックス出版
「新共同約聖書」聖書協会共同訳聖書実行委員会 1987年,1988年 日本聖書協会
「いちじくの木の下で 上」 山浦 玄嗣 2015年 イーピックス出版
「いちじくの木の下で 下」 山浦 玄嗣 2015年 イーピックス出版
※この文書で引用した山浦訳の福音書「ガリラヤのイェシュー」のフレーズは可能な限り「イチジクの木の下で」で解説されているものを選びました。